いもせがたり
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空白
音に聞こえし衣通姫の畜生道に堕ちたるが
妹背の契りを結ばんと蟲に変じて詣づと云ふ
君が往き日長くなりぬ山たづの
迎へを行かむ待つには待たじ

空白

不快な音が己れの歯の根から発せられていると気付くまで、正造には些か時間が 必要であった。
夏の盛りだというのに、全身の小刻みな震えも止まる気配がない。夏の夜のうだる暑さの中、脇の下をじっとりとした冷たい汗が滑り落ちる。
離れで一人、土間に蹲りながら正造は只管に両耳を覆っていた。
聞くまいとする程に、聴覚は其の声を意識し、不明瞭なそれの意図を汲み取ろうとする。
「兄さん」
「兄さん、千恵です。千恵が会いに参りました」
「少しでいいのです、顔をお見せ下さいまし」
戸の向うで、妹が待っている。

空白
正造の、兄の欲目を抜きにしても千恵は良い娘であった。
御一新からこちら、落ちる一方の士族の家だというのに、文句一つ言わずに働く。容貌麗しく心根は善良で、二年三年もしないうちに貰われていくであろう、花の十五の娘であった。
で、あった。過去のことだ。千恵が十五正造が二十の時、世を儚み入水してしまったのだから。誰も、理由を知らないままに七年が経った。
「それから、毎夏」
出るのです、千恵が。と目を据わらせながら、拝み屋に正造は告げた。
毎夏、千恵の死んだあの日に、一晩中離れの戸の前から正造を呼ぶのだと。
死人に呼ばれるのは恐ろしくとも、毎年会いにくる妹が不憫で離れを出ることができない、と。
淡々と語る正造を、元は京の陰陽師だという拝み屋は、じっと観ていた。瞬き一つせず、乾いた眼で。

空白
「そりゃあ、衣通姫の蟲やなあ」
語り終えた正造と役目を入れ替えるように、拝み屋が口を開く。
「知っているのですか」
「おう、おう。京にも出る怪や。エラい姫さんが蟲になったもんやからボクにも退けられへんけど、やり過ごしようなら教えられるわ。もっとも目ェつけられて七年経っとるなら、自分でやっとるんやろうがなあ」
勿体ぶった拝み屋から正造が聞き出せたのは、あくまでも訪れた夜に身を守る術でしかなかった。
一つ、呼びかけに応えないこと。
一つ、隙間から姿を見ないこと。
一つ、戸を開けないこと。
「たったそれだけか。千恵が迷い出ずに済むやりようはないのか」
不満気な正造に、拝み屋は厭らしく嗤った。呵々と嗤う口からは、乱杭歯と二股に分かれた舌が覗く。
「何が可笑しい」
「ヒ、ヒ、ヒ・・・・・・あんさん、この蟲はなあ、」
口の端を釣り上げた拝み屋の言葉を聞くや否や、正造はその男を殴り飛ばし、飛び出すように去って行った。
残された拝み屋は、大の男に殴られたというのに傷一つ負わずに嗤い続けている。
「ヒヒッ、妹さんもカワイソウやなあ。兄があの調子じゃあ何年経っても成仏できん・・・いや、取り殺して連れて行きよるか、ヒヒヒヒヒ・・・・・・」
正造の背を追いかけるかのように、その引き攣った嗤い声は何時迄も何時迄も響いていた。

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「兄さん、千恵です。千恵が参りました」
正造が拝み屋から逃げ帰った日から幾らもせずに、今年も千恵が現れた。
土間で蹲り、まんじりともしないで戸を見つめる正造の脳裏を、拝み屋の最後の言葉が過る。
「この蟲がつくのは、兄が妹を・・・千恵・・・」
思わず呟いていたそれに、戸の外が俄かに騒がしくなり、正造は小さく悲鳴を上げた。
「兄さん!呼んでくださいましたね、兄さん!」
がたがたと羽虫の震えのような音がするのは、千恵が喜んでいるからなのだろうか。余り頑丈ではない戸が、今にも破られそうだ。
咄嗟に戸にしがみつき、開けさせまいとする正造に、更に千恵が呼びかける。
「兄さん、千恵を覚えてらっしゃったんでしょう」
「やめてくれ・・・千恵、帰ってくれ・・・!」
「兄さん、忘れていないんでしょう。千恵が死んだ訳を」
「そんなもの知らない!千恵は、千恵は独りで溺れて死んだんだ!」
嬉しさを滲ませながらも穏やかな千恵と裏腹に、正造の声は荒々しさを増す。
千恵の声を掻き消さんとばかりに叫ぶ正造は、拝み屋の戒めをすっかり忘れ、戸に微かに空いた穴から彼女の様子を伺おうとした。
穴の向う、佇んでいる千恵は。
あの日の姿、しとどに髪と着物を濡らして引き揚げられた時の姿のまま、炎に包まれていた。
千恵は、燃えながらにっこりと。
「兄さん」
絶叫し奥の間へ逃げようとする正造を、飛び退いた弾みで開いた戸から千恵は追いかける。
一歩二歩、進むごとに焦げ付いた匂いが漂う。腰が抜けていた正造は、すぐに千恵に追いつかれてしまった。
「千恵、赦して、赦してくれ」
「兄さん、赦すって何。兄さんは何も悪いことをしていないよ」
尻をついた姿勢で、それでも後退りしようとする正造の脚を千恵の燃える腕が優しく抑える。
「熱い、千恵、悪かった、俺が悪かったから」
「ふふ、まだそんなことを気にしているの。一緒に河に入ったのに兄さんが生き延びたの、千恵は怒っていませんよ」
「千恵・・・・・・やめてくれ・・・・・・」
痛みで朦朧とする正造を、千恵の熱く、焰で輝く肢体が包み込む。
「兄さん、水じゃあ無理だったから、今度は火で一緒にいこう」
恍惚とした千恵の囁きと、何かが耳朶に齧り付く感触を残して、それきり正造の意識は途絶えた。
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