Tumbling Dice
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 スイッチが、カチリと指先で音を立てた。

 実験室の冷たい空気は私にとって大変心地の良いもので、深夜の仕事を厭わず行う理由の一つにもなっていた。上司が自室で仕事中なのをいいことに、鼻歌を口ずさみながらコンソールのキーを叩いていると、いつもより仕事の能率が上がるような気がした。

「はい、準備できました。D-1109、用意は良いですか?」

 ガラス越しに別室を見やると、一人の老人がこちらをじっと見ている。禿げた頭に痩せこけた頬はいかにも哀れっぽくて、かつては暴力団の幹部だったという面影は、鋭い眼光の他には見いだせなかった。

 こちらもじっと見返してみたが、男は沈黙を続けていた。実験監督官としては初めての仕事、物静かなDクラスは色々な意味で重宝する。実験動物が何を言おうが私は気にしないのだが、特に若い女にキンキンとした声で鳴き喚かれると、集中力が乱されてかなり神経にくることがある。仕事に支障を来す要因は出来る限り排除したいものだ。

 男は相変わらず黙ったまま。こちらを睨むその目つきを勝手に肯定と解釈して、私は作り笑顔をDクラスに向けた。

「結構です。ご心配なく、上手くやれば貴方に害はありませんよ」

 コンソールのスイッチを押すと、壁の一部が開口し、中から現れた強化ガラス製のケースが、D-1109に向けてゆっくりと差し出されていく。眼前に到着すると、オートで上部の蓋が開き、トレーに載った中のオブジェクトが取り出せる状態になった。

 一見何の変哲もない三つのサイコロ。AO-3456-JP。最近、とある要注意団体のアジトから回収されたAnomalousアイテムの一つだ。発見当時は”気分次第で思った通りの目が出るサイコロ”として保管庫送りにされていたのだが、最近になって正規オブジェクトへの移行検討のため、実験を行う運びとなった。

 これまではチンパンジーを利用した動物実験しか許可されていなかったが、この度目出度く人体実験の認可が下りた。勿論、必要性を倫理委員会に提言したのは私だ。

「さて、一応再度説明しておきましょうか。これは不思議な性質を持ったサイコロです。貴方の気持ち次第で出る目を変えることが出来ます――尤も、いつもいい目が出るとは限りませんけど。貴方にはこれを使って”一人チンチロリン”をやってもらいます。チンチロリンのルールは知っていますね? 自信がなければ先程渡したルールブックを再読してください。
 私が指示したタイミングで三つのサイコロを振ってください。十回振ったら実験は終了です。貴方は晴れて自由の身になれます」

 D-1109の表情は石のように動かない。良い傾向だと感じ、私は重ための黒縁眼鏡を直しつつ、再び笑顔をDクラスに向けた。チンパンジーによる実験の欠陥は、このサイコロが単なる感情に呼応して異常性を発揮するのか、それとも知性の機能としての”意思”を反映しているのか、それだけでは判別できなかったことだ。あらゆる動物に知性はあるが、知性で何かをコントロールしようとするのは人間だけだ。

 手元の画面には、D-1109の心拍数や推定される精神状態がモニタリングされている。緩やかなカーブを描く緑色の波形からは、たった十回の実験で自身が死罪から免れることに対しての興奮や高揚は感じられない。単に現実味がないと思っているのか、それとも別な理由があるのか。私にとってはどうでもいい。重要なのは、このオブジェクトの異常性が、人間相手にどのように発現するのかだ。

「準備は良いようですね。さあ、どうぞサイコロを手にとって下さい。良い目が出るように念じて、三つ一緒にトレーの中に振るのです」

 D-1109はガラスケース内のトレーに手を伸ばし、老いた無骨な掌に三つのサイコロを包み込んだ。彼の座る冷たいリノリウムの床には、以前の実験でDクラスが付けた微かな爪痕が傷となって残っている。私は気持ちの昂ぶりを抑えるように、小さく咳払いをした。

 表情を崩さないまま、D-1109はサイコロを振った。殺風景な実験室に、カラカラと無機質な音が響く。既に八台のカメラで記録されている実験風景は、その重大性に反して奇妙なほどに静謐としていた。

 からん、と乾いた音を立てて、トレーの中のサイコロが止まる。6・6・6。6のゾロ目、アラシと呼ばれる上から三番目の役だった。私は思わず、Dクラスに向けて両の掌を打ち合わせる。

「すばらしい! いきなり好調ですね、D-1109。生憎と支払う賭け金はありませんが、この調子でどんどん行きましょう。さあ、もう一度サイコロを手にとって下さい」

 ジェスチャーで再度の実験を指示する。冷徹な実験監督にあるまじき態度を取ってしまったが、いきなり異常効果が発揮されたのだ。興奮するのも当然だ、と自分に言い訳をして、私は上司がこの場にいない幸運を噛みしめていた。

 D-1109はポーカーフェイスを維持している。私はモニタの一つを操作して、現在の彼に身体的な変化がないか観察した。数値をよく見ると、実験開始時に160以上あった血圧が正常値まで下がっているのが確認された。予想通りの結果とはいえ、人間にもAO-3456-JPの異常効果が及ぶことを立証でき、私は再び胸躍った。

 私が一人で舞い上がっている最中、D-1109は黙々と任務を遂行する。2・2・2。再びアラシ。白内障により濁っていた彼の両目が元の光を取り戻したのを見てとると、私は震え始めた手を隠して、さらに次の試行へ進むよう促した。
 
 
 9回の実験が行われ、最高の目は5・5・5の所謂5ゾロ、最低の目は4・5・6であった。惜しくもピンゾロは出なかったが、それでも十分すぎる結果だった。

 費用対効果の節約という観点からすれば、最後は意図的に悪い目が出るよう念じろと指示し、異常性質の確認をすべき場面だったが、私はこの寡黙なDクラスをすっかり気に入ってしまった。この男は使える。実験が終わったところで解放されることはないだろうが、必ず他のオブジェクトの実験にも役立つだろう。ここで死なせるのは惜しい。幸いにして、人体実験を一度で終わらせろとは言われていないので、次は精神面に問題のある適当なDクラスを引っ張ってきて、悪い目が出た場合はどうなるか試してみることとしよう。

「素晴らしい成果でした、D-1109。さあ、最後の十回目です。どうぞサイコロを振ってください」

 小指の失われた皺くちゃの右手が、9度繰り返してきたのと同じ動作を行ったとき、ぴたり、と老いた男の動きが止まった。

「姉ちゃんよ」

 実験の開始以来、初めて男は口を開いた。白内障を癒やし、往年の鋭さを取り戻したような眼光が、真っ直ぐに私の方を見つめている。ギラギラとした、戦士を思わせる目つきだった。私は一瞬辟易ろいだが、努めて冷静に返答する。

「姉ちゃんではありませんよ、D-1109。私にも佐々原ささはらという名前があります」
「名前はどうでもいい。このサイコロは……確かに幸運のサイコロみてえだな。長年の四十肩が治ったよ」

 言いながら、大袈裟に腕をグルグルと回してみせる。従前の行動からは想像できない茶目っ気に、私は思わず目を丸くした。

「おめでとうございます。次はきっと髪の毛も昔に戻りますよ」
「ああ。これを続ければ――だが、こんな事はもう終わりにするべきだ」
「はい?」

 口をついて出た、何とも間の抜けた返事。しまった、と口元を抑える間に、D-1109はサイコロを握ったままの右手を、血が出るほどにぎゅっと握りしめていた。

「あんたは随分面白そうに見ていたけどな。こんな幸運を……いや、こんな訳の分からない運命を呼んでくるサイコロなんざ、俺にはこの世のものとは思えねえ。こんなものを造った奴は悪魔だ」

 真剣な語調で話し出したDクラスに、私はやや鼻白む感情を抱いた。我々ですら解明できないアノマリーの起源を、死刑囚如きが理解できるはずもない。

「そのオブ……サイコロの性質は貴方に関係のないことです、D-1109。指示通りに実験を続けないのならば罰を与えますよ?」
「実験は続けるさ、姉ちゃん。どうせ俺は、ここで死ぬ運命だろう。だが、あんたの思い通りにはならねえ。こいつが俺の意思を反映しているというのなら」

 そう言うと、Dクラスは右手の拳を自身の眼前に移動させ、硬い拳を前に目を閉じる。その様は、まるで何かに祈りを捧げているようだった。

「これでお仕舞いだ。姉ちゃん、最後に言っておく。人間の意思とか感情ってのは本当に素晴らしいものだ。だが、悪事や悲劇の後には暗い何かが残る。恨みと呼ばれる、最も暗い何かが」

 D-1109の右手から、ふわりとサイコロが放たれる。それは不自然なほど緩慢な動きでトレーを転がると、音も立てずに静止した。1・2・3。ヒフミと呼ばれる、倍額の支払を示す役だった。

 刹那、D-1109の胸元が弾けた。剝き出しになった血塗れの肋骨の隙間から、どくどくと脈打つ心臓が見え、膨らんだそれもまた風船のように破裂した。D-1109は最後に私を睥睨し、ニヤリとした不敵な笑みを投げつけた。笑いに歪んだ表情のまま、老人は床に突っ伏して倒れた。
 
*
 
 手元のタブレットに必要事項を記録しながら、私はサイト-8159の薄暗い廊下を早足で駆け抜けていた。

 素晴らしい、実に興味深い結果が得られた。”良い”結果が続いた後には相応の反動が、いやそれよりも、オブジェクト自体がD-1109に何らかの精神影響をもたらした可能性がある。更なる実験の結果次第では正規ナンバーへの昇格どころか、Euclidクラスへの変更も検討しなければならないだろう。

 胸の高鳴りを抑えつつ、私は上司の待つ自室に向かった。先程の実験は当然モニターしていたはずだ――でなければ死体処理係のDクラスがあんなに早くやって来ないだろう。後始末はすっかり怯えて縮み上がっていた部下職員達に任せているが、上司に言われる前に結果をいち早く報告することも、優秀な部下の務めであるはずだ。そう思って現場を離れたのだった。

 オフィスへは五分程度でたどり着けた。飾りっ気のない、番号だけが書かれた白い扉。一見して牢獄のような佇まいだが、サイトの中でも専用の研究室を与えられている職員は数えられるほどしかいない。一旦立ち止まった後、斜めになった眼鏡を掛け直し、すー、はーと深呼吸をして、私は強めにドアをノックしようとした。

「またあのサイコパスに好き勝手させてるの?」

 ぴたり、とノックする腕を止める。嫌な奴の声が聞こえたのだ。興が一気に冷めていくのを感じる。何故このタイミングで……私は子供の頃に見たくだらないサスペンスドラマを思い出しながら、半開きだったドアの隙間から中をのぞき込んでみた。上司の声が返答する。

「適切なクリアランスを持たない部下職員が好き勝手なことをすることは出来ない。彼女の行動は全て私の許可の下で行われている」
「そんなことは知ってるっつーの。私はあんたがどんな基準で彼女にオーケーを出しているのか聞いてんの」

 煙草を燻らして私の上司に話しかけているのは、レベル2研究員の九里浜くりはま博士だ。サイト-8159における異常生物学のスペシャリスト――のくせに、畑違いの上司の下にちょくちょく現れては、アドバイスと称して余計な入れ知恵をしているようだ。大学の同期だか何だか知らないが、この行為自体が何らかの規定違反にならないのだろうか。派手めな外見に反した低いハスキーボイスで、彼女は言葉を続けた。

「人体実験をあの子に任せるのはヤバいって再三言ったはずよ。案の定、貴重なDクラスが失われたわ。精神評価テストの結果は見た? そもそもあんたの専門は霊素子物理学でしょう。あんなアノマリー、梶原君にでも投げた方が良かったんじゃない?」
「……事前のレポートから致命的な結果にはならないと踏んだんだがな。確かに、私の判断が甘かったかも知れん」

 胸がムカムカしてくるのを感じた。結果だけ見れば何とでも言えるんだ。何が精神評価だ、ちゃんとカウンセラーにも面会してるし薬も欠かさず飲んでる、カプセルに入った黄色いやつ。いや、私の評価はこの際どうでもいいが、折角苦労して手に入れた実験監督の地位を剥奪されるのは我慢ならない。ドアを開けてこのまま中に乗り込んでいってやろうか。

「だが」

 言いながら、上司は九里浜博士に向き直る。黒縁眼鏡の奥で、強面に似つかわしくない大きな目が、一瞬こちらを見たような気がして、私は思わず後ずさった。

「彼女が私の部下である以上、私には部下を教育し、成長させ、問題があれば修正を加えていく義務がある。彼女には人体実験を監督した経験がなかった。だから機会を与えた。たとえ一度目が失敗に終わったとしても、それは直ちに機会を剥奪する理由としては不十分だ。そうだろう?」

 落ち着きのある声が、淡々と言葉を紡いでいた。修正、という表現が何とも彼らしく、思わず笑いそうになってしまう。この理路整然とした態度こそ、私が上司であるさい博士を尊敬している第一の理由だ。財団職員たるもの、感情を理性に優先させてはならない。そういう鉄則を彼は守っていた。

 ふー、とわざとらしい溜息をついて、九里浜博士は煙草をポケット灰皿にねじ込んだ。

「そう言うと思った。意地クソ悪いこと言って悪かったわ、ごめんなさい。でも、しばらく付き合わないうちにあんた変わったよね。昔はあんたもサイコパスだの冷血漢だの、散々上から言われてたくせに」
「お前にだけは言われたくないな、とおる。良かれ悪しかれ、人間は変わるものだ。特に財団のように特殊な職場にいれば尚更だ。こういう場所では、失敗と理不尽だけが人を育てる」
「彼女も自分のように変わってくれる、と?」
「それは本人次第だがな」

 眼鏡の奥の黒い目が、再びこちらの方を見ていた。私は何故か猛烈に恥ずかしくなって、逃げるようにドアの前から離れた。報告は、明日改めて行うことにしよう。日付の変更を告げる時計のアラームが、がらんとした廊下に寂しく響き渡っていた。
 
*
 
 結局、昨夜は一睡も出来なかった。

 部下達が退出し、空っぽになった実験室で、タブレットに必要事項を打ち込みながら、先程届いた各管理部門向けのアナログ書類にチェックを入れていく。

 不眠は実験による気分の昂ぶりもあるが、”財団職員”が死亡した際の事後処理の煩雑さは私の想像を超えていた。いかに実験動物といえど、有限な資産であり貴重であることは間違いない。提出しなければならない始末書の数は覚えていないが、これでまた私の研究が阻害されるかと思うと忸怩たる思いだ。

 私には夢がある。あらゆるオブジェクトの性質を解き明かし、この地上から”未解明の”異常存在を消滅させることだ。無限に思える財団の探求にとっても、人類を保護するという大義名分にとっても、それが唯一正しいゴールであるはずだと私は信じている。

 科学者として、探究心が未知や無知に屈服することだけはあってはならない。だからこそ、ありきたりな正義や道徳に囚われて本来の目的を見失うことは、財団の理念に反することだと思うのだが――

「おー、いたいた。未知華みちかさん、おはようッス。今日も美人ですね!」

 突然の声にぎょっとして振り向くと、出入り口に金髪のいかにも軽薄そうな男が立っていた。傍らにいる長い髪の少女に足を踏まれ、短い悲鳴を上げている。私にとっては、二人とも見慣れた顔だった。

「申し訳ありません、佐々原主任。サイト内では正しい役職で呼ぶようにと都度教育しているんですが」
「痛えな、お前は俺のママか? 俺は愛情と親しみを込めて――」
「黙りなさい。佐々原主任、実験でお疲れのところ失礼します。あの、実はご協力して欲しいことがあるんですが」

 ここが財団の研究室でなければその辺の大学生に見えそうなこの二人組は、崔博士が使っているエージェント達だ。主に要注意団体への潜入捜査を得意としていて、博士が特に能力を買っている二人でもある……私にはちょっと気の利く子供にしか見えないが。

「ああ、おはようございます。申し訳ないのですが、見ての通り忙殺されているんです。出来れば後にして貰えませんか?」

 作り笑顔を二人に向けて私は返答する。博士から教育を受けているだけはあって、この二人は私の研究を邪魔するようなことはしない筈だが、重要な話なら上司を通すのが筋の筈である。

「崔博士への許可は取っています。上席研究員会議で午前中ご不在ですので、その代行であれば佐々原主任かと」
「昨晩、ちょっと厄介そうなアノマリーを回収したんです。アレですよ、未知華さんが実験したサイコロを造ったらしい要注意団体ッス。”グラッジ”とか名乗っている。つまり、例の要注意人物……POI-10109が絡んでいる可能性があります」

 私は豆鉄砲を撃たれた鳩のように目を丸くした。自身の研究に熱中していて、博士の不在をすっかり忘却していたことにも驚いてしまったが、それ以上に、”グラッジ”の潜入捜査をこの二人が行っているなど知らされていなかったからだ。多分、崔博士が意図的に隠していたのだろうが。

*

「こちらです、佐々原主任。機動部隊長の指導で、念のため高危険度アノマリー収容ボックスに入れていますが」

 重々しい鉄扉をくぐり抜けた先は、危険度未評価の異常物品の一時保管倉庫だった。主にエージェントや機動部隊が要注意団体等から回収したアノマリーを保管しておく場所だが、ここに入れられる時点で、大体の物品はAnomalousアイテムとなる可能性が高い。Safe以上と推定される高危険度物品は最初から暫定的な特別収容プロトコルが設定されるからだ。

 ボックス内に取り付けられた監視カメラの映像が、眼前のモニターに映し出されている。収容ボックス10991に入ったソレは、虹色に明滅する、空飛ぶミラーボールのような物体だった。

「……なかなか面妖な見た目ですね。”グラッジ”はダンスクラブではなかったはずですが」
「厳重に施錠されたロッカーを開けたら出てきたんスよ。とりあえず浮いてるだけで害はなさそうなんで、そのまま収容ボックスに入れて持ち帰ってきたんですけど」
「施設は放棄されていました。大体前回の調査と一緒です。何かしらの目的で異常物品を製造しているのは間違いないのですが、目的も手段も相変わらず不明のままです。もちろん、POI-10109も行方知れずです」

 崔博士は二人に、異常物品を回収した場合はまず自分に報告を入れるよう要請していたようだ。あのサイコロにしろこのミラーボールにしろ、その性質を解明できれば制作者の動機や目的が見えてくる可能性はある――今のところ手がかりどころか何の共通点も感じられないが。

 ミラーボールは、未知の力でふわふわと宙に浮いている。外見的にはどちらかといえば滑稽なアノマリーと言えるが、その光が何故かこちらに向けて反射しているような気がして、私は一抹の不気味さを覚えた。

「印象ですが、意思や知性があるタイプのアノマリーとは思えませんね。念のため標準的なヒューム値検査と霊素子検査を実施しましょう。それで問題がなければ保管部送りでいいんじゃないでしょうか」

 柄にもなくやる気のないコメントをしてしまったが、はっきり言って今の私にアノマラスアイテムに関わっている余力はない。これの本格調査に着手するのはサイコロの研究が落ち着いてからでも遅くはないだろう。研究には優先順位がある。

「ありがとうございます、主任。早速各担当部に手配をかけます」
「しっかし、本当に目的が見えない団体なんスよねえ。東弊のように純粋な科学的探究心を持ってる風でもない、”博士”のように悪意ある玩具を造りたいというわけでもなさそうで、かといって商売目的にも見えない。ただ、中心人物として財団に強い恨みを持つPOI-10109が絡んでいる以上、何らかの方法で財団への攻撃を目論んでいるのは間違いない。そこが不気味な点です」

 エージェントの説明を、半分聞き流しつつ私は頷いた。はっきり言って、数多ある小規模要注意団体のひとつが、何を考えてコレや3456-JPを造ったかなど、私にとってはどうでもいい。アノマリーの持つ異常性質とは本質的に無関係な部分だから。私の目的は、科学者として異常物品の持つ真の性質を解き明かし、財団の理念を実現することだけだ。
 
 
<ササハラ……>
 
 
 保管室を去ろうとした足が、思わずばっと後ろを振り返る。モニターには、先程のミラーボールが変わりない様子でふわふわと浮いている。

「佐々原主任?」
「どうしたんスか」

 エージェント二人が、心配そうに私の顔をのぞき込んでいる。低く、くぐもった男の声だった。不眠で苛立っていたこともあり、つい声のトーンが上がってしまった。

「下らない悪ふざけは止めてください。こうしている間にも私の研究は遅延しているんです」
「え、何言ってるんスか未知華さん? 俺は何も……」
「そういう態度がダメだと言ってるの! ごめんなさい主任、私からよく言っておきますので」

 困惑している二人の後ろで、ミラーボールが私の方を見て輝いたような気がした。
 
 
<ササハラ>
 
 
 もう一度、今度ははっきりと聞こえた。二人も後ろを振り返る。どうやら幻聴の類いではないようだ。

「これは――」
「離れろ!」

 ミラーボールから突如として大量の煙が吹き出し、厳重に密閉されているはずのアノマリーボックスから溢れ出ていた。幻惑的な、紫色の煙。ラメをぶちまけたような独特の輝きを帯びたそれは、触れた全てを粉微塵にするかのような勢いで周囲に広がりつつあった。

 呆然と眺めていると、それは徐々に何かしらの形を取りだした。大まかに人の骨格を象った何か。子供の頃に見た妖怪図鑑の、”がしゃどくろ”を連想させる巨大な骨の怪物が姿を現しつつあった。

 女性エージェントが動けない私の左手を引き、思い切りドアに駆けだした。もう一人は持っていた閃光手榴弾をアノマリーに投げつけつつ、既に緊急通報のベルを鳴らしている。収容違反。私にとっては約5年ぶりの体験だった。

 未だに錆び付いて回転しない頭に、到着した機動部隊であろう銃声が響き渡ってくる。中から悲鳴が聞こえ、ドアから出てきたエージェントは壁を蹴り上げながら昇り、がしゃどくろの巨大な手が隔壁を無視して切り裂いてくるのを寸前のところで躱している。彼の持つパルクールの技術だったが、私の手を引く少女は後ろを振り返ろうとはしなかった。

「主任、急いで下さい! 彼なら大丈夫です」

 叫ぶように促して、彼女の細い足が必死に廊下を駆けている。運動不足の私の足は、何とか彼女について行こうと、まだ錆び付き気味の頭をよそにバタバタとみっともなく藻掻いていた。彼女の言葉が相棒に対する信頼の表れなのか、それとも自分に言い聞かせているだけなのか、今の私には判断できなかった。
 
 
 どれくらい走ったか判らない。いつの間にか私たち二人は先程の実験棟に戻ってきていた。付近の非常口からの脱出を試みたが、他の職員がパニック状態で殺到していたこと、現場へ向かう機動部隊員と衝突するルートだったことからあえて回避した。所謂”異常持ち”らしいエージェントには、付近の人物を察知する先天的な能力があるようだ。

「他の職員は既に避難したようです。ここからなら安全に出られます、急ぎましょう」

 こちらの歩みの遅さを鑑みながら、あくまで冷静なエスコートを行う。勝手に子供だと思っていたのは誤りだったかも知れない。

 銃声はいつの間にか消えていた。カツカツと廊下を駆ける私たちの足音だけが、誰もいない冷たい空間へ木霊している。寒々しい空気と、どこか不穏な香り。あのDクラスが倒れたときと同じ、濃厚な死の香りが私の鼻をついた。
 
 
<ササハラ>
 
 
 視線の端に、あの紫の煙が見えた。最早人の骨格からはかけ離れた、羆を思わせる巨大な手と爪が、空間も重力も無視して壁の中から覘いていた。

 再び、乱暴に左手を掴まれて引っ張られる。硬直気味だった私の体を無理矢理前進させ、どこかへ引っ張っていこうとする。何故ここまで必死になるのだろう? さほど親しくもない他人なのに。

「退路を塞がれました。佐々原主任は実験室内に隠れてください。私が奴の注意を引きつけます。これは賭けですが、やるしかありません」

 一瞬、彼女が何を言っているかよく分からなかった。物理法則を無視して攻撃してくる相手から逃走する方法などあるのか、いや、そもそもあの怪物は私を狙っているのではないのか。

「お願いします。生きていればまた会いましょう」

 映画やドラマの中でしか聞いたことのない台詞と一緒に、エージェントは紫の煙に向かって走り出した。私は彼女の行く先から目を背け、横の実験室の扉を開けて中に飛び込んだ。
 
 
 実験室内は、異様な静寂に包まれていた。

 いつもは私の心を落ち着かせる冷たい風が、この時ばかりは青い悪意の色を帯びているように見えた。扉一枚隔てた場所で命がけの戦いが繰り広げられているなど、ここにいる限りは信じられなかった。

 私は外扉の電子ロックを閉めると、コンソールのスイッチを一つだけ押す。部屋の奥に進んで、さらにもう一つの頑丈な鉄扉を開け、強化ガラスの向こう、D-1109が絶命した実験場の中へ入った。多くのDクラスの命を吸い込んできた白い床を、震える足で踏みしめながら進んでいく。実験場には対アノマリーの各種防壁が施されており、私の胸にあるカードキー無しでここまで入ってくることは誰であろうと不可能なはずだった。

 外扉は、ガラス越しの正面に見えている。数年にも思える数十秒が過ぎ去ると、扉にじわり、と何かが滲んだ。紫色の染み。私は、財団に入ったばかりの頃に読んだSCP-106の報告書を思い出していた。”人の手に負えぬ怪物”に対する純粋な恐れ。財団に勤めるうちに、いつしか恐れを好奇心が上書きしていた。

 紫の煙が、鉄扉の存在を無視して室内へ侵入してきた。私はアレの正体について色々な思案を巡らせていた。異次元由来? ガス状生命体? それとも――ガラス越しに私を見てきた怪物と目が合って、私の思考は途切れた。

<ササハラ>

 急速に近づく紫色のガス。実験場の防壁は完全に無意味だった。怪物の動きは思った以上に早く、私は逃げるため走り出す前に、紫色の爪に体を押さえつけられてしまった。どうやら体の一部を任意に物質化、もしくは現実化することが可能らしい。

「なぜ――何故私を狙うのですか」

 やっとの思いで、喉奥から絞り出した言葉。まともな回答を期待しているわけではない。ただ、時間が稼げるならばその方が良いと思っただけだ。

<復讐>

 私はこの時初めて、正面から怪物の顔を見た。歪んだ骨が形作る輪郭は、どこか嗤っているように見えた。

 大きな爪が、私の胸から腹にかけてを切り裂いた。

 一瞬の痛みだったが、恐らくは致命傷だろう。鮮血が体中から吹き出し、急速に意識が薄れていく。

 怪物は何か喋っている。怪物は嗤っている。私は床に倒れ伏せる。白いリノリウムが赤く染まっていく。私の血。D-1109の血。

「……きる」

 私は、握りしめた右の掌を開けた。

「私には夢がある。私は生きる」

 固めた決意と一緒に、私は隠し持っていたAO-3456-JPを床に放った。先程コンソールのスイッチを入れたのは、トレーからこれを取り出しておくためだった。

 目が出た。1・1・1。急速に全身の負傷が治癒し、意識も明晰さを取り戻す。私は再び床のサイコロをつかみ取り、全身の力を振り絞ってそこから駆け出した。

 怪物は振り向いて思い切り剛腕を振り回す。爪が私の背中を裂く。鋭い痛みが走るが、耐えられないほどではなかった。まだアノマリーは使わない。今度使えば、もう二度と拾い上げるチャンスは来ないだろうから。

 痛みに耐えて実験場の扉を開け、外扉に向けてさらに走る。怪物が猛烈な速度で迫っているが、奴も慌てているのか、爪の一撃、二撃は実験室の一部を破壊するだけの結果に終わった。

 私は縋り付くようにして外扉に飛びかかる。カードキーを当てる。怪物はまだ数メートル離れた距離にいる。勝った。二人の犠牲は無駄ではなかった。

≪認証エラー。扉を開錠できません≫

 一瞬、自動音声が何を喋っているのか判らなかった。急速に血の気が引き、忘れていた背中の痛みが襲ってくる。気がつくと、怪物は再び私の眼前まで迫っていた。

<ササハラ>

 何度目か、また名前を呼ばれた。怪物の爪は、サイコロを握った右手を腕ごと切り飛ばそうとしている。私は目を閉じて、二人のエージェント達に心の中で詫びた。
 
 
「佐々原君、ドアは既に開いています。開ける必要はありません」
 
 
 走馬燈のように、聞き慣れた声が私の耳に響いた。ほぼ同時に、雷が破裂するような音が鳴ると、怪物の悲鳴が実験室中に鳴り響く。奴は私から再び数メートル、飛び退くようにして距離を取っていた。

 私は少しだけ頭を上げて、その声が幻でないことを確かめた。

「崔博士……」
「少々遅すぎましたね、申し訳ない。エージェントを治療室に運んでいたので」

 そう言うと、博士は自身の白衣を私の血濡れの背中に掛けた。博士の右手には、見慣れない短銃のような装置が握られている。超小型化されたnPDN霊素子分解装置だった。

<お前は何だ?>
「霊素子物理学の専門家です」

 再度装置が作動すると、雷のような光が紫の体を刺し貫き、怪物は再び叫び声を上げて後退する。奴は実体化した霊素子の塊――俗に言う幽霊に近い存在のようだ。

 装置を使って実験場内まで怪物を押し込むと、崔博士は素早くコンソールを動作させ、実験室内に備え付けられた大型の霊素子分解装置を起動させる。今度は悲鳴と言うより絶叫に近い声が室内に響き渡った。並行して霊素子の物質化も行われたらしく、怪物は空中から墜落するようにしてリノリウムの床に伏せった。

「さて、貴方に聞きたいことは山ほどあるのですが、まずは収容の確立が先でしょうか。数分とせずに対霊的実体装備を備えた機動部隊が到着します。何か言っておきたいことは?」

 崔博士は、一切の感情を排した声でアノマリーに語りかける。怪物は強引な実体化の影響か、少しずつサイズを縮小し、萎んでいっているように見えた。

<我々だけが”グラッジ”ではない。”グラッジ”はどこにでもいる。これは敗北ではない>
「負け惜しみですか、D-1109」

 はっとして、縮んだ怪物の顔を見る。その骨格は、確かにあの老人と瓜二つだった。

<我々はD-1109ではない! 我々はD-1109である。我々はD-2587である。我々はD-593である。我々は戸塚研究員である。我々はエージェント・ルシールである……>

 様々な声色が怪物の喉奥から飛び出す。その声は女のようでもあり、男のようでもあり、若者であり、老人のようでもあった。私は狂ったように喋り続ける骨に怖気を感じながら、崔博士の顔を見た。博士のポーカーフェイスはこの状況でも崩れていない。

「成程。我々に恨みを持つ霊的実体を何らかの手段で強引に収集、人為的に結合したようですね。”恨みグラッジ”とはよく言ったものです」
<恨みは拡大する。恨みは増殖する。全てはお前達、財団の行いが招いたもの。財団が存在する限り、我々もまた存在する>
「そうですか。残念ながら、似たようなことを主張した集団は今まで山ほどいました。その全てを我々は滅ぼしましたが」
<滅んでなどいない。滅びなどない。お前達が歪んだ夢を見る限り、我々はまた現れる>

 血を吐くような声が響くと、紫の煙が徐々に散逸しているのが見て取れた。崔博士はこの時初めて、少し焦ったような表情を浮かべてコンソールを操作したが、機動部隊が到着する頃には、紫の煙は泡のように溶けて無くなっていた。

*

 インシデントで犠牲になったのは、怪物と最初に相対した機動部隊員2名だった。勇敢な彼らは、他の隊員を守るために自ら怪物の懐に飛び込み、体を三つに分断されてしまったらしい。

 他の隊員達やエージェントの二人は、何れも負傷はしたものの、致命的な傷はなく、気絶させられただけで終わっていた。退避の道中で煙の爪を浴びた一般職員達も、思いの外軽傷で済んでいた。

 崔博士の推測では、奴の表層にははっきりとD-1109の意識が現れていたらしい。奴が最後まで狙っていたのはこの私一人。幸いにして脊髄に損傷は無いものの、背中の傷は骨まで届いていて、どうやら一生傷跡が残るようだ。

「AO-3456-JPを使用したようですね、佐々原君」

 背中の傷を強ばらせながら、私は崔博士に向き合う。所定のカウンセリングとインタビューは済んでいたが、崔博士は個人的に私をラボに呼んだのだった。

「……ちゃんと報告はしてますよ。処罰を受ける覚悟もあります」
「責めてはいませんよ。私もあの状況なら同じことをしたでしょう。恐らくは罰則もありません。ただ、貴方が敢えてアノマリーを使用したことに意外さを感じたのです」

 私は顔を上げて、崔博士の目を見た。重たそうな眼鏡越しの瞳は、少しだけ微笑んでいるようにも見えた。

「お恥ずかしい話ですが、影響されていたのかも知れません。D-1109に」
「恥ずべきことではないでしょう。人と人が出会うことはそういうものです」
「でも、出会った結果として暗い恨みが残った。私は……間違っていたのでしょうか?」

 自分でも意外な言葉が、肺の奥から絞り出された。誰かに吐き出したかったのかも知れない。不安。正しいと信じていた私の夢に対する確信が、あの時を境に確実に揺らいでいたからだ。

「財団職員としての貴方は間違っていませんよ、佐々原君。ただ――我々は初めから正義の使徒ではない以上、我々の行いは”正しさ”に基づいているとは限らない。それだけです」
「では、私たちの依って立つべきものは何も無いと?」
「人類の生存に根拠がない以上、我々の存在にも根拠はありません。我々は皆暗闇の中で生まれ、暗闇の中で死んでいくだけです」

 崔博士の目は、射貫くように私を見つめている。その視線が少し痛くて、私は膝上の右手を見た。サイコロはあの後、異常性が発現しないように一個一個手放した。私の手にはもう、振るべき賽の目はない。

「博士は……強い方ですね。私はどこかで、自分の夢に酔わずにはいられなかったのかも知れません」
「私は強くなどありませんよ、佐々原君。ただ、少しだけ他人より長く生き延びてしまっただけです」

 そう言う崔博士の顔は、少しだけ寂しそうに見えた。彼はここに来るまで、何人の仲間を失ってきたのだろう。私は姿勢を正し、強ばった背中を強引に伸ばした。

「”グラッジ”の捜査状況、今後は私にも逐次お伝え願えますでしょうか、博士」
「あれの管轄は要注意団体管理部門です。所定の申請手続を行ってください。私も上に話を通しておきましょう」

 私は立ち上がり、博士に向けて深々と一礼をする。張り詰めた背中の痛みが、少しだけ私の意識を高いところに押し上げているような気がした。

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