呼名
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 案内人の頬に、冷たい雪の粒が落ちていた。

 この場所で道案内を始めてから何年経ったのか、男はとっくに数えるのをやめていた。寄せ集めの数字など、この世界では何の意味も持たないものだ。降りてど積もらず、煙のように消えていく雪を眺めつつ、男は未だ知らぬ”現世”に思いを馳せていた。
 
 
 この場所――忘れられたモノたちがやってくる場所に、突如として多数の人間が訪れ始めたのは、約一月前のことだった。最早誰にも覚えられていない亡者の群れ。その人々が、今までと異なり老若男女様々な装いであったことで、”現世”で何か取り返しのつかないことが起きたのだと、男はすぐに理解した。

 最初のうちに訪れたのは、大体が善良な小市民たちだった。彼らは混乱し、時に自らの運命を呪い、この世の不幸を大いに嘆いていた。男は彼らのほとんどを街に案内した――雪の向こうに見えるあの街が、どんなに地獄のような場所であったとしても、現世の彼らの末路を思えば、ここに留まっているよりはマシな選択肢だと思ったからだ。

 時が経つにつれ、段々と訪れる人々の質が変わっていった。彼ら彼女らは、現世で”名士”とか”偉人”と呼ばれていたらしく、大概が傲慢で、鼻持ちならない振る舞いをした。男は、ここに訪れた時点で貴方も他の人々も一緒ですよ、と諭したが、聞く耳持つ者は少数だった。彼らの何人かは街に向かったが、今でも諦めきれず、雪原のどこかを彷徨い歩いている者もいるはずだ。

 地面に向かって、小さなため息をつく。散々目にして分かっていたことではあったが、男は人間の持つ浅ましさ、命への醜い執着にほとほと呆れ果てていた。”偉い人”達の多くは自分らを敬うようにと強要してきたが、そうした人間ほど尊敬するに値しないことを、男はつくづく思い知っていた。呼び名ひとつを変えたところで、人間の本質が変わるものではないからだ。
 
 
 雪の降りは、段々と激しさを増していた。一週間ほど前から、訪れる人々の数は目に見えて減っていた。もう、”現世”の殆どの人間は死に絶えてしまったのかもしれない。この地と同じく、現世もまた無常。降り積もれど消えていくのみで何も残る物はない。そんなことを考えながら、男はそろそろ自分の役割も終わりか、と考え始めていた。何かを忘れたり思い出したりするのは、動物にはできない人間の仕草であろうから、現世から人間が一人も居なくなった時、きっと自分の役割も終わるのだろう。男は童のように、靴で地面に足跡を付けて遊んでいた。
 
 
 ふと、自分以外の何かが、雪を踏みしめる音が聞こえた。

 男は振り返る。この地に獣はいない。雪を踏みしめているのは、人の足だ。草履がさくさくと、乾いた雪を踏みしめている。雪の隙間から、恰幅の良い老人の笑顔が近づいてきた。

 眼鏡の奥、男の細い眼が大きく見開いた。
 
 
 「先生……!」
 
 
 嫌っていたはずの呼び名が、自然と口から零れ出た。

 老人は男の傍らに立つと、二、三言葉を発した。男は小さく項垂れて、右手で眼鏡の下を擦る。老人は右腕を回し、男の細い肩を抱いた。

 二人の目線の先には、ぼんやりとした街明かりが見えていた。男は老人と頷きあうと、ゆっくりと足を前に踏み出した。忘れられた二人の男は、親子のように歩みを揃えて、降りしきる雪の向こうへと消えていった。

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