空蝉
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その部屋は騒音に包まれていた。幾千にも及ぶ滝の如き蝉の声が狭い室内を何度も跳ね返っている。不快な熱気を纏った空気が揺さぶられる、そんな部屋の中で、机に向かう一つの影があった。

ざざざ、ざざざとテレビの砂嵐を思わせる耳障りな音のなか、その影は身動ぎ一つせずにその場に"据わっていた"。時折痙攣を起こしたかのようにびく、と動くこともあるが、それ以上のことは行っていない。つる、と濁った唾液が薄く開いた口から垂れていったが、影は拭うこともせずに、ただただ上を見上げていた。

その影は中空を見ていた。無を見据えていた。何をするでもなく、光の差し込まない瞳で上方をじっと見つめている。---よく見れば、その双眸には他の何かが息づいているのが、蠢いているのが分かる---多数の鑢が擦りつけられるような響きの中、影の白衣にしがみついていた油蝉が音を掻き消されながら机に落下した。やがて影は時間をかけて立ち上がると、今まで蝉を閉じ込めていた籠の蓋を開け放った。無数の蝉が狭い室内を飛び回る。影はその場で俯き、それ以降一切の活動を止めた。

数刻の後、影の頭にぷつ、と一つの小さな穴が開いた。穴の数は時間が経つにつれてじわじわと増していった。穴からは蝉の幼虫が這い出でてきた。1匹ではない。指さしで確認するのも億劫になるような数の蝉の幼虫が、うぞり、うぞりと顔を出した。

その内、最初に涌いた1匹の背が割れ、白く柔らかな蝉が姿を現した。幼虫たちは次々と白色を覗かせ、影はまるで結婚式の花嫁の如き姿となった。顔は白いヴェールで窺うことはできない。室内を飛び回っていた蝉の大群は結婚行進曲を演奏でもするかのように一斉に乱雑でけたたましい鳴き声を響かせる。

そこから暫く。最初の蝉の羽が乾き、色を得た。次々に完璧な色を手に入れた蝉たちは影より飛び立っていく。無数の蝉に無数の蝉が加わり、室内はついに過密状態に陥った。羽音、鳴き声、そして衝突音。雑音は束となり、一つとなる。

蝉は部屋の扉にぶつかっていった。相当数の蝉が砕けて散った。茅蜩ひぐらし、熊蝉、つくつくぼうし。しかしその死は無駄にはならない。蝉はついに扉を突き破った。静寂を侵しながら、部屋から蝉の激流が溢れ出す。中途に存在した蝉の群れも伴い、激流は奔流へと変わる。

終に蝉は外界へと飛び出した。元の場所に残ったのは数多の死体。そしてもう二度と動くことのない空蝉であった。

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