あなたは今までずっと何処にいたの
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どこのクソ野郎が財団上級職員の家に忍び込むだろうか、それも在宅中の時間に?

マリオン・ホイーラーは針葉樹林の奥深くに住居を構えていて、辿り着くには最寄りの大都市から長距離を走る必要があった。都市から遠く離れたサイト41とは反対の方向だ。何よりそれは夜の遅い時間のことで、彼女はベッドで読書をしていた。玄関扉が開錠される時のくぐもった、間違えようのない音が聞こえた。彼女は目を上げ、廊下を歩く柔らかな足音を聞き取りながら、前方の壁を一秒あまり見つめた。

彼女は自分の位置を記録して、財団支給の電話に手を伸ばした。家に常駐するセキュリティスタッフはいない ― 部門は深刻な人員不足に陥っていて、職員はサイトのより逼迫した目的にまわされていた ― それでも、建物と敷地は充実した電子的対抗手段で防備されていた。そして、センサーとカメラの全てが無力化されていることに彼女は気付いた。彼女はそれを知らされていなかった。侵入した何者かは、適切なパスコードを携えていた。

しかし、一体誰が?

財団には敵がいる。事実ながら、有力かつ積極的な敵対者は存外に限られていて、彼女ほどの地位の人間の殺害や誘拐を試みるような愚か者はさらに少なかった。しかし決してゼロではなく、無理難題でもなかった。護送車を率いて移動できるO5以下の人間は多くない。本当の問題は、圧倒的に不可能なのは、財団の無慈悲な報復を避けきることだ。それでも本当に可能だと確信したなら?もしもその価値があると判断したなら?

ホイーラーは無音警報を鳴らした。ナイトスタンドに電話を戻し、銃を取った。ベッドから滑り降り、手元の枕を元居た所に寄せ集め、聴覚と思考を研ぎ澄ませて、静かに寝室の扉の傍に立った。

彼女の寝室に通じるこのドアは、静かに開けることが出来なかった。恐ろしいほどに軋み、通れば注意を引くことは避けられなかった。天井裏があったが、入口はドアの向こうの階段手前にあり、その扉もまた軋みが酷かった。窓から飛び降りる他に地上に繋がるルートは無く、間違いなくそこも何者かがカバーしているはずだ。生きて茂みに着地したとして、挫いた足首で敷地を抜ける必要があった。

「誰が?」よりも「何人が?」の方が適切な問いだったかもしれない。人数次第では、彼女は既に死から逃れられないだろう。もしも攻撃者が慎重に歩みを進めて彼女を狩ろうとしたとして、運が味方すれば、八人あまりをホームアローンさながらに出し抜くことが出来ると彼女は判断した。彼らが二階を特攻し、かつ防備で固めていたなら、階段が難所として機能することを考慮しても、二人にさえ圧倒されると思われた。これら全ての考えが、当然ながら、攻撃者が非異常なことを前提としていた。彼らが異常存在であり、比較的対処可能な三割 ― 中心と頭に銃弾を浴びせるだけで無力化できるような類のそれ ― に含まれないとしたら、救援チームが現れても窮地に変わりない。そして、チームが辿り着くまでに少なくとも十分はかかる。

軋み。このどうしようもない家ときたら。階段を昇る何者かは、足音を掻き消す努力を全くしていないように聞こえた。しかし柔らかな足取りではあった。靴を脱いだかのように。一人だけ?全く理屈が通らない。

五秒の猶予期間、ホイーラーは予備の武器を求めて暗い部屋を見回した。階下のラウンジに縫い針があること、キッチンに良質なナイフがあることは分かっていた。しかしそれらは手が届かない。もう遅すぎた。ドアが開き始める。部屋に入ろうとする男は何かを言いかけたが、「た ― んぐ」と声を出すのが関の山だった。彼の顔面は床に、頬は深いクリーム色のカーペットに押し付けられ、背後のホイーラーは彼の手首の両方を膝で固めていた。彼女はすぐさま階段の方向へ振り返ったが、そこには誰もいなかった。彼女は男のもう片方の頬に銃口を突きつけた。「声を出せば、殺す」彼女は蛇のように囁いた。「動こうとすれば、殺す。」彼女は窓に目をやり、もう一度階段を確認し、耳をすませた。音は無い。何の気配も無かった。

五十代の、痩身の男だった。丈の合った高級な黒スーツを身に着けている。細長い四肢と、白髪交じりの太い髪の毛、そして縁なしの眼鏡は床に当たった衝撃で歪んでおり、腕時計やカフスボタン、指輪といった控え目なプラチナアクセサリーを身に着けていた。

二人はその状態で絵画のように静止した。男は動こうとはしなかったが、眼鏡を外された状態で出来る限り、横目でホイーラーを見ようとした。

ホイーラーは訊いた、「他は何処にいる?」

「僕だけだ、マリオン」彼は答える。

「あなたは誰?」

彼はしばらく沈黙し、表情を徐々に、僅かに曇らせた。「僕は、ああ。うん。そうか、本当に起こってしまったんだな?ずっと心配していたんだ。」

「あなたは誰?」

「君に付きまとって、記憶を食っているモンスターがいる、」男は言う。「SCP-4987。君はそれに大切な記憶を食べられないように、点滴の要領で無意味なトリビアを食べさせている。君はクイズ番組を見る。今読んでいた本もだ、ナイトスタンドにある。豆知識本だ。そうだろう?」

ホイーラーはこれに対して肯定も否定も漏らさなかったが、全て真実だった。餌遣りの時間になると、実体は視界の片隅に眩い白金色の点として現れた。今はそこにいない。

彼女は既に残りの部分を組み立てていた。気の遠くなるほどに、腹立たしいほどに明白だった。

よく抑えられてはいたが、なおいくらかの敵意を覗かせて彼女は訊いた、「あなたの名前は?」

「アダム」彼は言う。「アダム・ホイーラー。」

*

当然、彼女は男を拘留した。

彼女は部下に彼の尋問を ― 軽い尋問を ― 指示し、全ての発言に関しての裏取りを行わせた。その間に彼女は、汚染防止の為に遥か後方に留まっていた。彼女は介入したいという欲求、特に"アダム"本人を訪ねて直接答えを求める欲求を抑えた。彼女はオフィスに行き、カウチで丸くなって多少の睡眠を取ろうとしたが、結果的に失敗した。

七時間後に財団職員がオフィスの扉をノックし、インチ厚の印刷物と、痺れるほどに濃く入れられたコーヒーを持ち込んだ。部屋に他人を入れる前の認証手続きさながらに、ホイーラーはまず飲み物を受け取った。彼女はカウチの方に戻って前のめりに座り、暖かさを求めて、カップから湧く湯気を吸い込んだ。

男は対面する椅子に重々しく腰掛けた。先入観を与えかねないほどにがっしりとした体格で、日頃から無精ひげを生やし、四十に届かない年齢で、間違いなくサイトで最も危険な人物だ。彼は部門の肉体管理と戦闘訓練を担う、独立した機動部隊の長だ。名前はアレックス・ガウス。「彼らは、あー」ガウスは言う、「私が結果を伝えるべきだと判断したようです。調査の方には少しも関わっていないのですが。『馬が合うだろう。』だとか何とか。個人的には理解しかねますが。」

ホイーラーはコーヒーに集中していた。「彼の正体は?」

形だけの行為として、ガウスは報告書の最初のページを開き、再び閉じた。「あなたの夫です。全ての発言が調べられました。物的証拠は無数にあります。私を含む部門の半分が彼と知人関係にあります。プロトコルの固守と勤勉には頭が下がりますが、つまるところ、SCP-4987は腹が減っていたのでしょう。」

ホイーラーは頷いた。調査結果は、直観と単純な事実を一晩をかけて繋ぎ合わせて得た自分の答えと一致した。一体どこから彼女の苗字が生じたと言うのか。彼女の生まれの名前は"ホイーラー"では無い。だが然るべき証拠が必要だった。

彼女は訊いた、「過去に同様の事例は?」

「いいえ。」

「再び発生する可能性は?」

ガウスは肩をすくめた。「誰よりも、あなたが一番に分かっていることでしょう。」

「ええ。そうね。一つ言えることがあるとすれば、SCP-4987は私に従うようになっています。厳正なレジュメに沿って、私が食べて良いと言った記憶だけを食べます。かつては急性の一般には致命的な記憶寄生者で、慢性化、後に飼いならされました。それが今、主従を放棄すると?それに理屈が通りますか?」

「あなたが通らないとおっしゃるのでしたら、通らないのでしょう。」慎重に、ガウスは言葉を選んだ。「しかし現場経験者から言わせてもらえば、二度起こらないことはありません。」

ホイーラーは十分に冷ましたコーヒーを大きく飲み込んだ。未来を見通すかのように、彼女は渦巻く湯気を見つめた。「しかし彼は誰なのでしょう?」彼女は再び訊いた。「現時点では、あなたの方がよく知っているはずです。態度はどうですか?人柄は気に入りそうですか?」

ガウスは露骨に顔をしかめた。酷い多重質問を投げかけてきたものだと。

ホイーラーは彼と目を合わせて言った、「あなたのアダム・ホイーラーに対する個人的な印象を教えてください。直接命令です。」

「…十分に良い奴だと思いますよ。」

「'十分に良い'?」

ガウスは舌を鳴らした。「気に入りませんね」彼は認めた。「個人的には。それだけです。我々は公正です。しかし彼はいささか独り善がりで、賢しすぎるきらいがあります。ただ…気に障るというだけの話です。それで牢屋に押し込めるべきかと問われれば、答えは否です。」

「私は彼を気に入ると思いますか?」

「あなたが ― 」ガウスは言い出し、止めた。彼は目を逸らした。時間が過ぎるにつれて、ホイーラーには見たこともないような、柔らかな笑みが彼の顔に浮かんだ。少なくとも、数年間の同僚としての関係の中では初めて見たような。「そうですね」彼は言う。「気に入りますよ。他の誰よりも。」

*

本名: アダム・ベラミー・ホイーラー。1962年2月27日に、英国、ダービーシャー、ヘンジでローズマリー・リア・ホイーラー(旧姓ウィズト)とジョナサン・'ジャック'・フィリップ・ホイーラーの間に生まれる。兄弟は無し。児童教育: ヘンジ英国国教会初等学校、マトロック皆聖中等学校。幼児期から顕著な音楽の才を示す。16歳にして、当代における最も優れたヴァイオリン奏者として認められる。ロイヤル・カレッジ・オブ ―

ホイーラーは三ページを飛ばした。

― ████████のツアーにて軽症を負った後、治療を受けた病院棟を侵食していたSCP-4051に遭遇。SCP-4051は特殊な反ミームカモフラージュによって保護されていたが、ホイーラー氏の(現在も持続する)耐性体質 ― 十四万五千人に一人に見られる ― によって認識された。彼は存在を公的組織へ通報することを試みたが、財団傍受局によって妨害された。マリオン・A・ハッチンソン職員(100A-1-9331)は当時フィールドエージェントとして勤務しており ―

もう一ページ。

― 従来の記憶処理手順に対する耐性を示した。ハッチンソンは例外措置を申請し、受理された。この際、記憶を現状のままに残したとしても、ホイーラー氏がSCP-4051の情報を広く共有することは不可能であるとの理由が提示された。彼らは後に恋愛関係に進展した。

「ああそう、二人は『後に恋愛関係に進展した』というの?もっと教えなさい、平凡な灰色球の伝記作家さん、興味が湧いたわ。」

以降の伝記には内容が無いに等しかった。アダム・ホイーラーの人生におけるツアーと演奏と講義と、偶の指揮と、執筆と作曲は、網羅的にかつ無意味な詳細まで丁寧に記されている。彼は背景調査と監視を耐え、しきりに自分が情報を漏らさないことを説明した。彼は後に、普通は財団職員の長期配偶者に与えられる極低レベルのクリアランスを与えられた。二人は結婚した。彼女は彼の名前を貰ったが、書類を読む今の彼女にはどうにも空想めいて映る。あれやこれや。

彼の人柄に関する記載は何もなかった。関係についての情報も。そこには内容が無かった。

彼女はSCP-4051を取得したことを思い出す。そこには誰もいなかった。何も思い出すことは無い。

*


三回目の尋問が終わる頃までは、アダム・ホイーラーは善意を信じていた。彼は繰り返される尋問を、組織のマニュアルが要求してくる勤勉の悪い表れだと考えていた。四人目のインタビュー担当者が「あなたの名前は?」と尋ねた時に初めて彼は理解した:彼らは自分を嫌っていて、自分の名乗りに興味など無いのだということに。彼らは自分の思考が止まるまですり減らそうとしていて、そうすれば彼らは心置きなく情報を引き出すことが出来る。

彼はその発見に対して良い反応をしなかった。彼は妻を要求して、妻を要求し、無視され、再び無視され、彼女は一行に現れず、手順は冷ややかな拷問の形を成していった。不実な答えも、答えないことも、嘘をつくことも、話を脇道を逸らすことも、絶えずやってくる質問を止めることは出来なかった。彼が自分の発言の途中で眠りに落ちるまで、彼らは止めなかった。

彼は標準人型収容ユニットの中で目覚めた。積立式の一寝室の家で、ホログラム式の偽窓、強固な壁からなり、異常存在の監視と収容の為の細かな変更が広範囲に施されていた。この一つは地下一階にあったが、彼にそれを知る術は無かった。リビングの窓から差し込む眩しい"太陽光らしき何か"は、日焼けしそうなほどにリアルだ。

カウチの上で目覚めた彼が最初に感じたのは、体の軋みと脱水の感覚だった。スーツのままで眠り、皺がついてしまったことに彼は気付いた。最善の身だしなみをしていないこと、少なくとも見れる状態にないことを、彼はひどく嫌っていた。最低でも剃刀と替えのシャツを見つけるまでは、彼を苛立たせることだろう。

彼を目覚めさせたのは、ドアが開錠される時のガチャンという重い金属音だった。彼は目覚め、目を擦っていた。妻がそこにいた。「マリオン!ああ、神様。」彼は跳び起きて、彼女の下へ駆け寄った。数歩離れたあたりで彼女は、制止の仕草と冷たい笑顔を見せた。それは傷つく。何よりも。

つまりは本当に起きたのだ、SCP-4987はマリオン・ホイーラーの中の彼を気遣う部分を噛み取ってしまったのだ。彼女は何か別のKクラスの事件に気を揉んでいるのではなかった。彼女はただ、無関心に、他の場所にいることを選んだのだ。

だからアダムは彼女を抱きしめなかった。彼は無礼にならない距離を保った。「調子はどうだ?ちゃんと眠れたかい?」

「私は大丈夫。」

「朝のコーヒーを飲んだんだね。朝ご飯は食べた?来なよ、何か作ってあげるから。」ユニットには、簡素な台所が付いていた。彼は棚の中を探し始めた。「ここにも何か食べられるものはあるはずだ。卵と牛乳くらいは。情けない話だけど、ここに運ばれた時にそのまま眠ってしまって、見て回る暇も無かったんだ。それともここはいつも空で、食事は壁から差し入れられるのかな?」

マリオンは口を開く、「ホイーラーさん ― 」

アダムは不満を露わにした。

「分かった」彼女は言う、「アダム。ここに来て座ってちょうだい。その通りよ、棚には何も入ってない。」

彼は棚を閉じて、キッチンテーブルの向かいに座った。「スクランブルエッグと黒トースト、」彼は提案した。「卵はガーリックたっぷりで。僕達に今必要なのはそれだ。特に君は、僕がちゃんとした食事を作らないと、あの壁紙糊みたいな味のミルクシェイクを週七で飲むだろう。それか食事を丸ごと抜いてしまうかだ。」

「アダム。私達は結婚して十七年を過ごした。それで合ってる?」

「そうだ。」

「私はあなたを知らない。」

「大丈夫だ」アダムは言う。「きっと重大な問題じゃないはずだ。何度も聞かせてくれただろう、部下が仕事の中で記憶を失って、自分の人格を作り直すはめになったことを。君はそれを楽しんで見ていた。蛹が蝶々に羽化するのを眺めるみたいに。優秀な部下なら十週間で立ち直れると。君ならそれよりも早いだろう。」

「いえ」ホイーラーは返した。声は冷淡で、事務的だ。「残念ながらそれは出来ない。」

「何が出来ないって?」

「今から新しい関係を始めることは出来ない。結婚ほどに重要なことなら、なおさら。あなたのクリアランスは一般人同然。やり方は知っているでしょう。私達にも義務がある。その…'時間'が無いのよ。」

「何も'新しい'ことじゃない、」アダムは無表情に言う。「既に存在しているんだ。」

「いいえ、」ホイーラーは言った。「その関係は終わって、今はまた別の場所にいます。」

アダムは彼女を暫く見つめた。唇は薄く、明るい表情とは程遠い。彼は訊いた:

「何を覚えているんだ?」

そのあまりに漠然とした質問に、ホイーラーは言葉で返すことが出来なかった。彼女は手を若干広げ、聞き返すジェスチャーを行った。

「君は僕を忘れてしまった、」アダムは言う。「そしてSCP-4987は僕を気に掛けてくれる君の一部も食べてしまったようだ。加えて、ブランチが好きな君もだ。『他に何を忘れたんだ?』というのも変な質問だから、代わりに訊く。何が残っているんだ?。覚えていること全てを教えて欲しい。」

「覚えていること全て?」

「そう。1995年から今日まで。」

文字通りに受け取ればやはり馬鹿げた質問で、ホイーラーの直感は無視するように促したが、彼女は考え直した。純粋に、質問に答えようと思考を巡らせた。彼女は空白を見つけた。具体性の欠如があった。「何かを言え」と命令されて、言葉を全て忘れてしまうように。

彼女は言った、「覚えているのは、働いていたこと。」

そして車で帰宅し、眠り、再び職場へ向かったこと。大きく、威圧的な建物。投薬計画、収容手順、尽きない量の不透明な数字、肉体鍛錬。ランニング。計算。計算を決して止めなかったこと。そして不明瞭ではあったが、内容は様々の酷い悪夢を思い出す。

それ以外には、何もなかった。巨大な、底知れぬ、乱れた形の穴が口を開いていた。

アダムは言う、「何も良い思い出なんて無かったんだろう?良いことは何も。」

「君が帰る時はいつも夜で、すぐにでも眠りにつくんだ。簡単な仕事だったことは無いにしても、ここ数年は最悪だった。恐ろしい何かの結末がやってきているからだと。君が本当にやっていることを教えることはできない、教えれば僕は死ぬと、君は説明してくれた。僕は…最初は耐えられなかったし、今も君の仕事が大嫌いだ。途方もない茶番だと思っている…でも君を信じることにして、質問を止めたんだ。それでも、君の手の震えや、言ってくれないことや、眠り方を見て、何か戦争のようなことが起こっていることは分かった。その中で君は仲間を失っていた。そしてもうすぐ終わりだ。君は勝とうとしているんだ。」

「だから僕は卵をかき混ぜて、ヴァイオリンを聞かせて、一緒に『普通の生活』のせめて三割くらいを捻出しようとした。君が僕無しでやっていけないからじゃない、君は本当にそうしようと思えば一人で世界を丸ごと相手取ることも出来るだろう。でもそんなことは忘れてしまおう、君はそうしなくていい。」

「一瞬の出来事じゃなかった。それなりに早い進展ではあったけれど。始めに共通の音楽があった、バッハとメンデルスゾーンの。タバコの趣味と、お互いにXファイルを毛嫌いしているのが分かった。次はコーヒーとワインだった。その後は、ハイキングやバードウォッチング、ペルセウス流星群があった。ブルース・リーの映画が好きだった。ロー&オーダージェパディ!を見て、何冊も本を読んだ。いや、正確には、本を読むのは大体僕の方だった。君はもうまとまった時間を取れなくなっていたから。」

彼は一瞬鼻筋を摘まんだ。どんな二人の人間の間にもその程度の共通点は見つかる。同じ場所で何年を過ごそうと何の意味も無い。二人の本当の繋がりは何だった?

「僕たちは話をした、」彼は言う。「今までに会った誰よりも。僕が海外ツアーのために二か月離れていようと、帰ってくれば最後に交わした言葉の続きが出てくるんだ。繋がっていた。同じ意識の中にいた。すぐに分かるはずだ。また元に戻るさ。同じくらいの早さで。君が自分にチャンスを与えれば。」

ホイーラーはもう少しで掴もうとしていた。彼女にはアダムの言っている形が少しずつ見えていた。それは小さくぼやけていたが、十分に意識を向ければ焦点が合ってくるように思えた。言葉に出来ない漠然とした不安があったが、あり得ない話ではないことを理解しかけていた。彼女の今の人生に嵌りこんで、なお理屈が通るかもしれない。

しかしアダムは何か重大な言葉を発していた。そのキーワードは結婚相談の終わりと、事態の始まりを意味した。無視することは出来ない。彼女は掴みかけていた糸を離し、そちらを掴んだ。

「戦争?」

アダムの方は変化を飲み込めていなかった。「何を言っているんだ。戦争は戦争だ、マリオン。他に何と説明したらいいのか分からないよ。」

「何の戦争?何人がいなくなった?」

「分からない、」アダムは言う。「名前があった。君が話に挙げなくなった人がいて、僕が聞き返しても君は無視した。何か理由があると思ったんだ。詳しいことは分からない。どうして僕に訊くんだ?どうして知らなかったんだ?」

ホイーラーは駆け足で理屈をさらった。戦争の発生は符合した。長らく存在した疑惑と噛み合った。彼女の知らないうちに何年も続いていたのかもしれない。彼女はそれと戦い、勝利し、それでも知らないままでいたかもしれない。自ら記憶を捨てたか、前線で失ったか。彼女がそれに気付いたのは初めてでないはずだ。精神の厚い脂肪層に相当する形質を備えたアダムが、抗争の脇にいて仄かに気配を認識していたのも頷けた。そして部門は、人員が不足していた。

彼女の周りで人が消えていた。

「もしも ― 」彼女は口を開いたが、考えがそのまま奪われたかのように、思考の途中で止まった。

「もしも関係を戻したとして ― 」彼女は再び口にし、今度は本能が彼女の身体の中心を鷲掴みにし、それを知れば彼女は死ぬという確信から、思考を吐き出させようとした。絶壁から駆け出て宙に浮くワイリー・コヨーテに等しい状況の彼女にとって、その思考は下を向くことを意味した。

彼女と緩やかに縛られているSCP-4987が動き回るのを感じ、目の中では光の粒がちらつく。「何かがおかしい。」

アダムは自分の目を擦った。「今のが見えたか?」

「どうやってあなたにそれが見えるの?」

「僕は反ミーム的影響に若干の耐性がある、」アダムは言う。彼はそれが記録に残っていることを知っていたし、それをホイーラーが読んだことも承知していたが、繰り返す必要があったらしい。「自分の記憶を何かが弄くりまわしていると分かる。それに耐えられる、ある程度は。それでマリオン、出来ることならコーヒーでも飲みながらあくまで自然にこの話題に持っていきたかったんだが、結論を急がないといけなさそうだ。思うに、SCP-4987は僕を殺そうとしている。」

「…いえ、」ホイーラーは言う。「行動モデルに反するわ。人を食べることで生態を維持している存在では無い。それが食べるのは記憶よ。こんな行動は見たことがない。あなたも、私も、誰も。最初の時から。そして今は手懐けられている。私の言うことには正確に従う。待っていようと、退屈していようと、私が短期記憶を差し出せば、待ての合図で食べる。」

「だとしたらこれは何をしようとしているんだ?」アダムは恐々として、目を覆うことを止めなかった。彼は立ち上がり、後退りした。「出来るだけ早く理解してくれると助かるよ。僕たちにSCP-4987を静める方法は無いだろう。」

ホイーラーの意識で何かの音が響いたが、耳には届いていなかった。犬の群れが吠えたてる声が微かに聞こえた。彼女も立ち上がり、収容ユニットの中央に立つアダムへ近づいた。

彼女は言う、「あなたを守ろうとしているのよ。」

「僕を ― どうして君の中の僕の記憶を消すことが?」

「説明は出来ない、」ホイーラーは言う。「説明が出来ない理由も説明できない。自分でも完全には分からない。███████████ ███████がある。」

が?」

「あなたはここにいるべきじゃない、」彼女は言う。「私の人生にいるべきじゃない。離れて、さもなければ死んでしまう。」

「君を置いていくなんて出来ない、」アダムは言う。「全く、だからそうしたんだろう。つまり、結婚だ、言いたかったのは。最初から火を見るより明らかだった、ずっと一緒にいるべきだってことは。僕は記録に残る形が良かった。尊敬する人達全員の前で、彼らに誓ったんだ、君を守ると。永遠に。」

SCP-4987は動揺していた。ホイーラーはそれが部屋中を無秩序に飛び回り、何かの求めを彼女に伝えようとするのを感じた。

突然、化学光の明瞭さで彼女は言った、「私も同じ誓いをしたはずよ。」

アダムは痛みのあまりに体を折っていた。今は両目が見えなかった。目を閉じようと、目を覆おうと意味は無かった。彼を向く白金色の光は強さを増し、紫色に変化していた。彼は錯乱していた。「助けて。助けてくれ。目が見えない。」彼は手を伸ばし、たどたどしくホイーラーの手を求めた。彼女は彼の手を取り、抱き寄せた。光は消えない。SCP-4987が完全な制御下に収まるまでの暫くの間、彼はホイーラーに掴まり、彼女も掴み返した。その行動は、全て意図したものだったことに彼女は気が付いた。

「本当にそうするのか?」アダムは言う。「これが財団の命令か、これが'保護'の意味することなのか?君は自分がしようとしていることを分かっていない。僕のことさえ覚えていないんだ。」

「おそらく分かっている。」

「残りの人生がずっとそうだ。毎朝、かつての本当の生活を思い出して、体の奥からやってくる酷い寒気に目覚める。君はその理由を考えることになる。」

「私はこの戦争に勝つ、」ホイーラーは語った。「世界に勝つ。そうしたら、理由を探しに来ることにするわ。」

アダムはさらに長い間、彼女に掴まった。今は彼にも犬の吠える声が聞こえ、遠く丘を越えた場所にある、SCP-4987を取り乱させた存在も、仄かに認識できた。遠方の朧気な点は、飛び交う間接的なイメージだけでも恐怖を呼び起こさせた。

彼は信じていた。マリオンが崩されたピースを組み直す速さを、理屈の通らない世界に抗い、真実を手に入れる強さを知っていた。彼女が世界に立ち向かえることは知っていた。しかし一つの疑念が彼の内臓を鋭く突き刺して、声を上げずにはいられなかった:「もし負けたらどうなる?」

彼女は彼に口付けをした。それは他人同士の口付けで、アダムが思い出せるものでは無かった。動揺して、彼はそれを突き放した。今度は囁きとなって考えが蘇った。「もし負けたらどうなる?」

*


ホイーラーは収容ユニットから現れ、流れる動作でドアを叩き閉じた。重い金属音が建物全体を響き渡った。

外には同僚がいた。ガウス、ジュリー・スチルと他の何人かが書類を見比べていた。彼らは落胆していた。

「バックストーリーを埋めてください、」彼女は指示した。「彼は結婚していなかった。一生私の目に入らない場所に移動させて、証拠は全て焼却。記憶処理施術を受け次第、私に報告を。記憶処理は私が最後に行います。」

ガウスは何かを抗議しようとした。彼女は彼を上から睨みつけた。

「私の夫は死んだわ」と彼女は言った。

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