欠ける雲間に枯れ尾花
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夏のもこもことした雲の群れをアイスクリームやソフトクリームになぞらえるのは、誰しもが幼心に煌めかせた幻のひとつだろう。
甘く冷たいそれは口いっぱいに広がり、遊び歩き疲れた体にじゅんわりと優しく染み込んでいく。
歳月を経て大人になりそれが単なる水や氷の集まりだと知らされても、ふとした拍子に懐かしみ思い起こされる。

しかし、まさか。
本当に、食べられてしまうとは。

 
 
 
祖母の三周忌だというのに、私は手持ち無沙汰に暇を重ね、時が過ぎるのをじいっと待っていた。住職の送り迎えが私に割り振られた役割であったが、――約束の時間にはまだ早い。
仕事用のノートパソコンを大きな荷物と共に実家に置いてきた事を僅かに悔い、プレゼンテーションの為に凝らした資料に胡乱げな恋しさを抱いていた。
ここから歩いて幾らも掛からないが、熱で籠もる湿気が全ての動きを邪魔をして離れない。
古い家ではあったが、風が通る気配も無かった。

台所を忙しく行き交う女性ら、赤ら顔で昔話に花を咲かせる父と叔父、流行りのゲームを熱く語る子供の面々、皆がみな私に構う事なく好々に過ごしている。仲の良かった従兄弟は仕事の都合が付けられず、欠席の連絡を寄越したと聞いている。自分が子供の頃には法事とあらば大人達は右に左にと動いていた記憶があるが、手番が回って来ても男手の要る場面などはとうに過ぎ去っていた。
葬儀以来、久しく箪笥の肥やしになっていた黒色のネクタイも既に襟元を離れ、今はポケットの中で丸まり恨み言を吐いている。

常であれば物置に埃を被っているだけの大きな座卓は今日の為によく磨かれ、自慢げにつやを放ちながら細やかに編まれた白色のレースに飾られている。来客用の座布団もきちりと人数分揃えられており隙は無い。見る度に穴が増えていた障子紙は全て新しく張り直され、染みのひとつも許さんとばかりに輝いていた。
襖を外し居間と繋がった仏間には祭壇が設けられ、精進料理の並ぶお膳をはじめ持ち寄られた果物や箱菓子が溢れんばかりに供えられていたが、一際目を引いたのはそれらを囲うように並べられた真っ白な胡蝶蘭だった。
供花とはまた別に用意された鉢の数々は立派な面を誇らしげに揃えた大輪のもので、下世話ではあるがこれ程のものを用意するならば相応の金額がかかったのであろうと想像に難くない。
全ては、祖母の弔いの為にと。

「あれは妹の好きな花でね、病院でもずうっと枕元に飾っていたのよ。白い花の鉢植えだなんて縁起でもないって言ったんだけど、最期まで聞いちゃくれなかったわ。」
昔から妙な所で頑固な子でね、と眉尻を下げた大伯母の目は過去を見据えていたのだろう。懐かしむ声にも涙が僅かに滲んでいた。
 
 
 
思い起こすのは、夏の積乱雲に幼稚な幻想を重ねていた頃。
二十年も前になるだろうか、確かに祖母は白い胡蝶蘭を好いており、まめに世話をしていた。

「この花は息をしているからね、窓は開けておかなくちゃいけないの。」

皺と血管の目立つ滑らかな手で幼い私の頭を優しく撫でながら、気に入りの蘭について語る祖母の目はうら若い乙女のように輝いていた。
家を出た後は流石に疎遠になってしまったが、それでも長期休暇の際には必ず顔を見せにあの立て付けの悪い玄関を潜った。成人して幾年も経つというのに、何かに理由を付けては手渡される小遣いを断るにも要領よく振る舞わねばならなかった。自分の趣味の為にと諭したところで、これが趣味だと言い張るのだ。確かに断り切った筈のぽち袋が後ほど衣類入れから現れた時は、してやられたと舌を巻いたものだ。
楽しげな動物のキャラクターの上に達者な筆跡で「暑中御見舞」と書かれた、ちぐはぐなぽち袋。
それは、今でも机の引き出しに大切に仕舞ってある。
祖母にとって、私はいつまで経っても孫だったのだろう。

祖母からの小遣いはブリキの貯金箱に一纏めにしている。それで胡蝶蘭の一鉢でも買ってくれば良かったかと、己の至らなさを僅かばかり恨んだ。

頭を撫ぜる感触も、優しく落とされる声も、柔らかな香りも。
何も褪せてなどいない。
病に侵され、真っ白な病室に希釈されそうな小さな背中でさえ。事切れたその手の冷たささえ。
もう三周忌だというのに、大好きな祖母が既にこの世を去って久しい事を、未だ受け入れられないでいた。
 
 
「…少し、一服してくるよ。」

涙を気取られないよう誤魔化したつもりだったが隠し切れてはおらず、僅かに声が揺らぐ。
大伯母は短い返事だけを返し、庭先に置かれた灰皿の位置だけを簡潔に伝えた。
それは、優しさだったのだろう。
 
 
縁側に腰を下ろし、気紛れにスマートフォンのアプリケーションでラジオを流す。学生の頃にはラジカセから流れるこのチャンネルにも世話になった。司会であるローカルタレントの陽気な声も、私と同じく時を歩み少しの老いを覗かせている。
私は祖母に胸を張れるような立派な大人になれたのだろうか。あの胡蝶蘭のように堂々と振る舞える自信は無い。

「…ばあちゃん、俺も次の誕生日で三十になるよ。」

漏れ出た独り言の代わり、唇だけで柔く咥えたフィルターの白さに少しばかり救われた気がした。古ぼけたマッチで煙草葉に火を点け、煙をすいと口内へ転がす。それは甘苦く脳と肺を燻し、細くたなびく紫煙は空へと上り吸い込まれるように消えていった。
幼心に夢見たソフトクリーム。積乱雲、彼岸、白い胡蝶蘭。
全てが重なり、じゅんわりと染み入る。
痛い程の白さは眩々とするようで、心だけを過去に巻き戻し、憂いと僅かな祝福をもたらした。
大好きだった祖母。
天国を信じてなどいなかったが、今は先人の教えに寄り掛かるのも、悪くはないのだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
――――――――ばくり
 
 
 
 
 
 
食べられた。

…食べられた、のか。
雲のてっぺんが少し欠けていた。

見間違いだろうか?
移動の疲れが今頃出たのだろうか。
 
 
 
 
――――――ばくり

また。
また、食べられた。

――――――ばくり

また、食べられた。

――――――ばくり

食べられる。

――――――ばくり

無遠慮に。

――――――ばくり

躊躇い無く。

――――――ばくり

欠けていく。

――――――ばくり

食べられていく。

――――――ばくり

それは祖母が、

――――――ばくり

それは、それは。

――――――ばくり

それだけは。

――――――ばくり

それだけはやめてくれ。

――――――ばくり

やめてくれ。

――――――ばくり

やめてくれ。
 
 
 
 
「やめろ!!」

気付いたら大きく声を荒げていた。
喉の奥が熱い。
ひりひりと感情に灼けている。
怒りであり、悲しみであり、寂しさであり、どれでも無い。
気温のせいではない。疲れのせいでも見間違いでもない。
頭蓋の奥は冷え切っていた。
脂汗が頬から首筋を静かに伝う。

なんだこれは、なんだ。これは。

縁側に放り置かれたラジオ番組から、じじ、ざあざあと羽虫のごときノイズが撒かれる。
突如、聞き慣れぬ声が響いた。
 
 
「「「「誰?」」」」
 
 
目が合った。
目が合った、と思う。
姿も見えなければ何者かも知れない。
だが、これは人間ではない。
直感的にそう、思ってしまった。

ちぐはぐだ。
男でも女でもない、高くも低くもない、何でもない。
獣が無理矢理に人間の言葉を吐いたような怖気の走る声だった。
返答など出来よう筈もない。
返答などするべき筈もない。
蝉の声は止んでいた。
集まった親戚の談笑の声も。
あれほど喧しかったのが。
一斉に。
私だけが切り離されたようで。
私だけが別のチャンネルにいるようで。
息を殺した。
何故と疑問に思うまでも無く。
身じろぎひとつ取れなかった。
そうせざるを得なかった。

気取られては、ならない。
 
 
 
 
 
 
「ごめんくださあい。」
 
 
 
突然の呼び掛けに肩が跳ねた。
沈黙を破ったのは確かに、人間の、女性の声だった。

緊張感が解け、留まっていた汗がどっと溢れる。
溜息を大きく吐いた。
蝉の声も、親族の声も、何もかもが元に戻っていた。
戻って来た。
一歩たりとも動いていなかったが、そう表す以外に言葉が見つからなかった。
聞こえなかったと思われたのだろう、同じ調子で再び声を掛けられる。

「ごめんくださあい。」
「はい、今行きます。」

玄関に向かうと、そこには黒いスーツの女性が立っていた。ストレートのショートボブに、にこにこと優しそうな面持ちが強張った服装とやや乖離している。祖母の知り合いだろうか、あるいはその娘か、孫か。恐らくそう私と歳が離れてはいないだろう。深々と大袈裟に頭を下げて続けた。

「お忙しい所申し訳ありません。私デイサービスセンターの者なのですが、こちらのお祖母様の法事が本日執り行われると聞いてお邪魔させて頂きました。故あって参列は出来ないのですが、せめて何かお供え物を、と思いまして。」

そうして手に持っていた風呂敷包を、手前に持ち直す。鮮やかな藤色に小花柄の散りばめられた美しい絹布が、動きに合わせてしなりと揺れる。

「ああ、すいません。ご丁寧にありがとうございます。」

礼を述べて小さく会釈すると、その女性はにこりと微笑み返した。

「お祖母様の好物を、と思ったのですがこちらで合っているかどうか自信が無くて…、」

女性はするすると風呂敷を解いて中身を取り出す。

それは、
 
 
 
ガスマスクに、薬品めいたスプレー缶だった。
 
 
「え?」

私が間抜けな声を出して呆気に取られている間に女性は素早くマスクを装着し、私にそのスプレーを吹きかけた。
風呂敷は音もなく床にはらりと落ちる。

少しの痛みが顔面を襲う。
くらくらと眩む。
何故か、あの胡蝶蘭を思い出した。
白く、大輪の、立派な、鉢の数々。

視界がゆっくりと蘭に埋め尽くされ、やがて混ざりぼやけて行く。
白む意識の中で、かすかに声が聞こえた。
確かに、人間の、女性の声だった。
 
 
「…ええ、移動して申し訳ありません。しかし明らかな目撃者です。はい、先行での記憶処理は完了しています、ご安心下さい。僅かではありますが、周辺磁場の不自然な揺らぎが観測されています。万一に備え、対住宅地用の隠蔽処置を展開できるよう手配を進めて頂ければと。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祖母の三周忌だというのに、私はどうやら熱中症で倒れていたらしい。
住職の送り迎えが私に割り振られた役割であったが、――時間にゆとりがある為に、私は居間のソファで養生がてら寝転んでいた。
玄関付近の廊下に転がっている所を、御手洗いに立った叔父が介抱してくれたらしい。脈拍に合わせて前頭部が未だずくずくと疼いて止まない。

「いや驚いた。良い気分で出て来たら君が倒れてるもんでな、一気に酔いも覚めた。大丈夫か?まだ横になってたって良いんだぞ。坊さんの迎えなら俺が代わるよ。」
「すいません、ご心配おかけしました。でも大丈夫です。」

それに叔父さんはお酒を飲んだでしょう、と指摘すると悪戯っぽく笑った。

「確かに、法事の日に飲酒運転で捕まったなんてばれたら母さんに拳骨されちまうよ。夢枕に立つんならまだしも、彼岸から鬼の形相で帰ってきかねん。」

想像した絵面が妙に可笑しくてつい噴き出してしまった。私にとっては「優しいおばあちゃん」でしか無いのに、叔父と父は殊更祖母を恐れていたようだ。きっと私には見せなかった一面もあるのだろう。何かの転機か、あるいは月並みに年月が彼女を丸めたのかもしれない。

「ばあちゃんの話、もっと聞きたいです。まだ少し頭が痛いので気紛れに。」
「余計に病んでも知らねえぞ?」

おどけてはいたが心配をかけたのは事実なのだろう、叔父は私の背中を軽く叩くと折り畳み用の小さな卓を寄せ、冷えた麦茶と金平糖を乗せてくれた。盆に乗せきれなかったお供え物のひとつであろう。
襖を外し居間と繋がった仏間には祭壇が設けられ、精進料理の並ぶお膳をはじめ持ち寄られた果物や箱菓子が溢れんばかりに供えられていたが、一際目を引いたのはそれらを囲うように並べられた真っ白な胡蝶蘭だった。
供花とはまた別に用意された鉢の数々は立派な面を誇らしげに揃えた大輪のもので、下世話ではあるがこれ程のものを用意するならば相応の金額がかかったのであろうと想像に難くない。
私は叔父に問うた。
 
 
 
 
「そういえば、あの胡蝶蘭って何ですか?」
 
 
 

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