やがて玉響に消えるなら
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「あんまりそうやって燻っていると、花のように腐れ、木の根のように草臥れ、泥のように淀んでしまいます」

……と、男は臥所に横たわる女性に声を掛けました。女性は遣る瀬無い顔で、顔の半分以上を覆う黒髪を払うことなく、幽鬼染みた表情で男性を見詰めました。女性の顔には、悲哀とも悲愴とも云えない哀切の皺が、化粧のように彩られています。その色は幾ら拭い、どれだけ洗っても深く濃く刻まれており、一生涯女の顔から剥がれることはないでしょう。

強固に根強く付着した表情は、綺麗な女には似合わないものでした。本来なら薄く笑って幸福に過ごす方が相応しく、このような顔になること事態ありえません。どうしてこのようになってしまったのか……それにはあるわけがあったのです。女は裕福な家系の一人でした。しかし、ある凄惨極まる残虐非道の果てに、明眸皓歯も失せ、悲しみの化粧をし、一日の大半を寝て過ごす憂鬱な女性となってしまったのです。

「花は咲けどもやがて枯れ、古木は人知れず倒壊し、泥は清めども沼になります。これは幾ら人が手間、時間を惜しみ掛けても一緒ではございませんか……私はもう何もかもが嫌になってしまっているのです。かの名家の殺人事件よ、妄り囁く人の噂に抗おうと踏ん張り食いしばって、どうなるとおっしゃるのですか? あなたがどうかしてくださいまして? 私を流布跋扈した、有象無象の無辜の口々に精神を啄ばまれ死んでいく運命でしかないのですから……」

女が空笑いしたかと思うと、折角上げた顔を再び寝具に埋めてしまいました。女性の気持ちを知らず、臥所の近くの窓辺は眩しく朗らかな風が漂い込み、白いカーテンをふわふわ舞い上げています。男は女性の傍にそっと座りながら、艶のある黒髪を指で梳きました。

「……海……海に行きませんか?」

「曽根崎心中をしてくれるなら、あなたと一緒に行きましょう」

「またそんなことを云う。そんな事をして、一人だけくたばっちまって、もう独りがこの世に残されたらどうするのです? 私は一人になるのは嫌ですし、あなたは一人ぼっちになるのが怖いでしょうに」

男は女の二の腕を掴み、ゆっくりと身体を起こさせました。女の半身は下着を着けていない上着一枚の格好で、控えめな膨らみがなだらかに胸を主張させています。男は一瞬だけ女の胸元を思わず注視してしまいましたが、自制するように立ち上がり、衣装棚から上の下着と洋服を取り出し、手渡しました。女性は眉を少し寄せ、顔を顰めさせましたが、しぶしぶといった様子で受け取り、着替えを始めました。男はその間、女性に背中を向けて、両目を閉ざしています。衣擦れの音が止み、女が男を呼ぶまで決して振り返ることはありませんでした。

「もう、良いわよ。構わないわよ」

「はい……」

「あなた、本当変ね。もう何十年も一緒なのに、そんな些細なことを気にして……」

「しかし……私はあなた様の家族でありませんし、一介の使用人……」

「胸を見ていた癖に」

「……申し訳ございません」

女性はヤハリ悲しそうに……いいえ、泣きそうに笑いながら、茫々と乱れた長い髪の毛を丁寧に整えました。男はその間、海へ行くための準備を色々と済ませていました。男は海へ行こうと女に誘いましたが、それは思いから出た突発的な言葉でしかなかったのです。ですから、下準備というものは全くしておらず、普通は女の方が準備に時間が掛かるのですが、今回は男の方に時間を割いたことは云うまでもありません。

男は車を回して、女はその運転席の隣に座りました。女の格好は薄い水色のワンピースに白く大きな鍔の帽子を被っています。男の姿は少し前と変わりありませんでした。女は男にもっと涼しい格好に着替えるよう云いましたが、男は首を振り断りました。女はこれ以上指示し頓着しても無駄なことだとわかっているのか、それ以上は何も云いません。男は昔から頑固者でした。実は女が海へ行くよう男が促した言葉にさほど抵抗なく従ったのは、断れば断るほど、例えそれが嘘や思いつきの言葉であっても、男が頑固と意地になっていくことを知っていたからです。

車を走らせて20分経つか経たないところに海があります。海原は大きく広がり、海坂の果てを緩やかな曲線を描いているようでした。ざぶざぶと聞こえる自然のせせらぎが耳に心地よく、潮風が鼻を刺激します。女はレースの付いた日傘を差し、海辺をぶらぶら漫ろ歩いていました。男は女から少し離れつつも、後を付いていきます。二人の頭上を大きな鳥が、ひょろろと鳴きながら旋廻しました。

「良い天気ね」

「はい。どこもかしこも青く、心が洗われるようです」

「……ありがとう、オセッカイ」

どこか素直になりきれないような……もしくは本当は余計なお世話でしかなかったのですが、礼を云わずにはいられない態度で女がぽつりと述べます。男はそんな気持ちがわかっていたのでしょう。敢えて無言のまま、足元に転がった貝殻をひとつ摘み上げ、指でくるくると回しながら、物珍しそうに見詰めています。女は男の姿が見えないように、日傘をそちらの方へ何気なく傾けました。

女は目を細め、青い地平線の先を暫く眺めていましたが、やがてポツリと……。

「……当たり前の話だけど、この地球上のどこかで鯨が跳ね、氷山の一角が崩れているのだわ。それと同じように私が知らないだけで、比べるのはしていけないことだけれども……もっと不幸で、最悪な目にあった人間というものが、一人ぐらいいるのでしょう。私は毎日毎夜、お布団の上で転々し魘され悶えておりますけど……自身の不幸なんて、何てことはない事なのかもしれません」

「……。考えすぎは体と心に毒となりましょう」

「家のことをトヤカク云う噂も苦しいのだけど……私がね、一番耐え切れないのは……」

ねえ……聞いて。聞いてくださいますか……、と女はか細く縋る声で云いました。男は頷きましたが、女は男の姿を日傘で退けていますので、見えることはありません。ただ、こくりと首を動かした微かな気配だけは感じたようです。その察知は女が男へ向ける絶対の信頼、揺ぎ無い愛情ゆえに会得したものです。

「私が一番悲しいのは、思い出せないことが辛いの。あの時のことを追憶することが出来ない、それが一番悲しいの。先生からは……あんまり嫌なことがあると、防衛反応としてその記憶を忘れてしまうのだとおっしゃっていました」

「辛い記憶なら、無い方がマシじゃございませんか……」

「ええ、私もそう思って、受け入れようとしました。だけどね……それでも人間というのは苦い劇薬や辛い猛毒であっても、いつしか欲してしまうのよ。あなたには記憶がポッカリ穴抜けたことはなし、不幸といえるほど人並みの嫌な経験しかないから解らないでしょうけど……甘い菓子だけでぶくぶくと肥るわけにはいかないのですよ。人間は……」

「お嬢様……私も記憶を……いえ……」

男は何かを云い出そうとしましたが、言葉を挟めることは遠慮と礼儀のないものだと判断したのでしょう、身を引き黙り込みました。二人の間を、白い灯台の方から鴎が飛んで行きます。女はその白い鳥を視界の隅に留めていました。

「私は大切なものを苦しいだけの理由で投げ捨ててしまった。例えそれが生きることの出来ないほど辛い記憶を本能で消したとしても、どうして簡単に忘れることができるのでしょう。私は薄汚れた薄情な人間なのです」

「……眩しいものに近づきすぎる事は墜落を意味しています。知っているでしょう、あの有名な、蝋の翼を持って飛び去った人のお話を……彼は落ちて……ただ落ちるだけではなく、海の藻屑となってしまったのです」

「どうせ死ぬなら……あなたと一緒が良い」

共倒れの話は海へ出る前にしたものですが、男は女性の言葉を決して否定しませんでした。それは思いの丈を吐露し、心の奥底に沈んでいた考えを縋るように口にした女性を、傷つけまいとする優しい気持ちからくる思いやりではありません。寧ろ男は、共に死ぬことを肯定的に捉えています。しかし、自殺で一番恐ろしいのは失敗してしまうことです。死にたがる女を残して、自分だけが死んでしまった場合を考えれば、簡単に賛成できなかったのです。

「……浮世の全てがうたかた、たまゆらならば……私は空白になった記憶を取り戻したい……」

女は男の姿を遮っていた傘を退かし、もう片方の肩に寄せました。女はほろりと涙を零しています。男にとって女が泣く様子は夜空に流れる星の如く綺麗に見えました。そう見えたのは男が女のことを揺ぎ無く掛替えのない大切な人だと考えていたからです。男以外の他者から見れば、ただ普通に泣いている人間にしか映らないでしょう。

「私は全てを受け入れたい。あの事件は何がきっかけで、どのようなことがあったのか……事の始まりは私かもしれない。だけど、全て忘れて虫良く生きることなんて、どうしてできましょう……そう覚悟しても、何も思い出せず、ずぶずぶと深みに嵌ってしまいます。生霊とも死霊ともいえずふらふら迷い、ぐらぐら惑うばかり……のうのうと過ごすにはあんまりひどい……」

女は自身の人差し指で、涙翳む露を弾けさせました。

「あんまり酷い話じゃないですか……っ」

とうとう持っていた日傘をバタリと落として、女は両手で顔を覆い、蚊の鳴くような悲痛な声を漏らして泣き始めました。男は潮風に突き動かされる日傘をソッと手にし、閉ざします。女の背後に近寄って、柔らかく小さな肩を掴みました。

「もう戻りましょう……あなたが束の間刹那でも、苦しみから逃れることが出来ればと思いましたが、逆効果でしかありませんでした。すみません……私が短慮ゆえ、思慮と配慮至らず真綿でキリキリ苦しめることばかり……。さ、もう、戻りましょう」

「いいのよ、いいのよ……ここにいさせて頂戴な」

男は思わず視線を逸らしました。唇を淡く歯噛みさせ女の背中から一歩下がるのです。男は女の涙や揺らいだ心持が落ち着くまで無遠慮に触れることはせず、黙って見守りました。

……その様子は女の昂ぶった気持ちが落ち着くまで冷静に待とうとする優しい姿のように思えますが、男の心に……僅か数分の間に、最初は気の惑いや世迷言とも云えない考えが、下り坂を駆け下りるように段々と大きくなっていくのを、ハッキリと自覚していました。それは恐ろしい考えでしたが、何とも力強く魅力的なことであったことでしょう……長根歌、比翼連理の言葉を受け取った有名な話のように、「はやく、はやく」と手招きをし、共に死にたいという女に対して、ある本能的な察知をしていたのです。

一言で申すなら、男はこう考えました。女がこの場に留まりたい理由は、男が女のか細い手を取り、紺碧の海を進みんで蛤の吐く蜃気楼に溶けたいのかもしれない……だけど、勾引かす波に遮られ双方が別れてしまったら……。道連れの充てとして、水死というのは最も縁遠く忌避せぬばならぬものです。それならば、男がすべきことはただひとつ……この手で彼女の首を手折ることが唯一の方法でしょう。キット、この女は望んでいるに違いない……好きな人に殺されることは素晴らしいものだと相対死を……。

男の胸中に一度心の中に翳った曇りは中々晴れることなく、疑心は予感となり、予感は確信となりました。私は彼女を殺せるのか……と、男は口の中で呟きました。人を殺すことは恐ろしい事です。中でも愛している人を殺すことは辛苦そのものです。女は記憶が不確かですが、家族同士で殺しあったことに対して苦悩を抱いており、家族当然の男を殺すことはできません。ですから、女の望みを叶えるのは男自ら動かなくてはならないのでした。

「……、……」

男はぼうとした調子で、背中をゾクゾク震わせながら女の名前を幽かに呼びました。女は目の縁に涙を溜めながらもニッコリと、これ以上ない莞爾顔で振り返り、男を信頼した顔で見詰めています。男は女のか細く華奢な首をじいっと凝視していました。

「……お嬢様……私……、私はあなたを――」

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