暗がりに這入る者の名は
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201█年 その年は恐らく彼にとって人生の転機の年であったのだろう。そこから件の男はその人生を踏み外し、転落していったのであろう。その年から、件の男は二度と戻れない世の暗がりへ自ら赴いたのであろう。
誰がそう仕組んだのか、誰が男をそうしてしまったのか。これには特定の個人の名前も、団体の名前も挙がらない。世界自体、男がそうなるであろう、そうなってしまうであろうことを期待し、いや今でも期待している。

財団に入って一ヶ月と過ぎた。男は未だに馴染めないこの世の暗がりに対峙していた。自分が何を相手にしているのか、男自身よく分かってはいなかった。よく分かろうとするのは博士を初めとする研究者の務めであり、男の務めるエージェントを初めとした実働部隊は、それが何であるかを知る必要はないし、知らされる権利も持ち合わせていない。「Need to Know」の原則に則り、男には何も知らされない。「何をしてはいけない」「何をせよ」そうした最低限の情報だけで、男は世界の暗がりに対峙していた。しかしながら、そうした知の中では、必ずしも事故や事件というのは、起こるわけで、男も漏れなく、その例外ではないわけで。

男が目覚めると、そこには知らない天井が広がっていた。そこは男の知らぬ場所であった。だが、香ってくる消毒液の無機質な香りと、滅菌された清潔なベッドが男にそこがどこであるのかを教えていた。
しばらく天井を眺めていると、天井の一点に不気味な三日月型の染みがあるのに気が付いた。それは上弦の月でも、下弦の月でもない。それは下向きに膨れ上がった笑顔のように見えた。跳ね上がった薄黒い口角は今思えば男の未来を暗示していたのかもしれない。
「████さん?気が付きましたか」
その名前を、今では思い出せない。人の気配に神経が痛む。首は動かせない。目線だけで声の主を探り当てると、そこには顔に大きな継目のある女性が立っていた。髪を三つ編みに後ろで縛っている。手に持ったカルテと男を交互に見る瞳の色は、今の男に表現できなかった。
「良かったですね。あなたがここにいらして今日で2年と2ヶ月12日です。ご気分は?」
そう言われて、言葉は何も見当たらなかった。2年。あまりに長い。それは謂わば昏睡状態というやつではないのか。男の脳が一気に覚醒し事態を把握しようと試みる。体が熱い。背に渡る汗が蛆のように這っているのが分かる。
「あぁ、どうか落ち着いて。2年ですから、それは長かったでしょう。ですが身体機能に大きな問題はありません。筋肉の衰えで多少体を動かすのに不便するかもしれないですが、貴方の体のその驚異的な回復力ならば大丈夫でしょう。ただ…」
彼女の目線が一点に注がれて、男は予見した。ゆっくりと首を動かして自らの右手を、右手の、右手のあったであろう場所を眺める。

が、それは叶わなかった。見えるのは力ない右肩とその先10cmほどだけであった。

気が付くと、既に夜であった。左手に見える窓からは月明かりが指していた。目頭が熱く、頬に涙の伝わっていたことが分かる。喉が焼けるように熱い。嘔吐でもしたのであろう。だが記憶にない。周りを見渡すと一本の点滴が左手に刺されている。滴り落ちる水滴のそのパッケージには鎮静剤の名前が書いてあるのが分かる。
男は起き上がり、そして月を眺める。三日月であった。ふと思い出し、天井を眺める。染みは以前より色濃くなり、その口角もより吊り上がって見えた。

それから三日後の事であった。財団指定の入院期間の二日前である。ある男が訪ねてきた。彼は男に面会を申し出た。男は心身ともに傷つき、今や誰とでも会話の仕様があると思っていた。男が面会を承諾すると、病室に入ってきた彼は両手にいっぱいのユリの花束を携えて来た。男は自らの目を疑った。
「あぁ、これはユリの花だ。わかっている」
彼はそれだけ言って、その花束を花瓶に刺した。男は彼を今すぐにでも追い出したくなった。
しかし、彼が携えてきたもう一つ。その巨大な箱だけが気になり、何を言うこともしなかった。


「つまり、貴方が俺をこうした。ということですか?」
「少し違う。私は君をそうしたと思い込んでいる。と言いたいのだ」
ちぐはぐな会話から得られたのは、男がエージェントとしてオブジェクトの回収任務に当たり、そして事故にあい、右手を失った。その作戦指揮をしていたのが、訪れた彼、ということらしい。
彼はその自責の念から病室に訪れた。ということであった。
「でもそれは、見舞い、ではないんだろ?」
男には、それは分かっていた。彼の態度と口調は明らかに病人を見舞う者のそれではなかった。それだけが引っ掛かっていた。それを言うと、彼は持ってきた巨大な箱に手をかけた。
「話があってね。君の才能は素晴らしい。ここで腕の一本や二本落としただけで財団を辞めてほしくはないのだよ」
そういいながら開けた箱の中には、更に箱があるだけであった。だが、その様子は外側の黒い厚紙の包装よりは頑丈に見えた。恐らくは金属であろう。彼はそのロックを外し、開ける。そして取り出したのは。義手であった。
だが、その義手は人間のそれとはかなり異なっていた。爪先は鋭利に尖り、関節は異様な形をしていた。装着するであろう断面からは幾つかの電極が伸びていた。
「筋電義手。というやつらしい。財団で作った世界最高峰のモデルだ。何一つ不自由しない保証までついている」
本来、義手というのは無くなった四肢の代わりを務める。その「代わり」には傍から見てもある程度違和感のないような外見にすることも含まれるのではないかと男は思った。
そんな事おかまいなしに、彼はその異様な黒い義手を男の腕に付け、固定した。そして電源を入れる。
動いた。その義手は予想以上に今までの腕の通りに動いていた。思わず義手が自らの頬を撫でる。その感触にはまだ慣れないが、義手から伝わる感触は、しっかりと自分の頬であった。
「君は一度死んだ。この世の闇に対峙して一度は死んだのだ。だからこそ、君は必要なんだ。死者として」
彼はそれだけ言って、踵を返し、病室のドアに手をかける。
「あぁ」
彼は思い出したかのように呟き
「もし機会があれば、木場に礼を言うといい」
それでは、と言って彼は行ってしまった。

男はしばらく嬉しいとも、悲しいとも、なんとも言われぬ興奮の中で自らの右腕を振り回していた。点滴が倒れようと、心電計が倒れようと構わない。もう男は自由なのだ。そしてもう、男は一度死んでいるのだ。命をなげうって対峙した暗がりに、今度は自ら這入っていく。ユリの花たちは静かに興奮する死者を眺め、天井の染みはより一層、しっかりと笑っている。
そんな嘲笑うかのように染みを見て、男は
「俺の名を言ってみろ」
男はそうして、また再び、世の暗がりに対峙するため、その腕を伸ばすのであった。遥か遠い、笑う天井にまで。

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