(中華異学会の資料より抜粋。財団中国支部により句読点の追加と編集がなされた。
一部箇所は編集済。人名・地名は下線で表示される)1
經:初,神農拒蚩尤於涿鹿。持數日,軒轅率百餘夔趨擊之。蚩尤殺神農,帝殺蚩尤,並戮二軍,遂主天下。
「竹簡」による記述: 初めに、神農は
涿鹿タクロクで
蚩尤シユウの軍勢と対峙した。戦いが膠着していたが数日後、
軒轅ケンエンは百匹余りの
夔キを率いて戦場へ乱入。蚩尤が神農を殺した後、軒轅は蚩尤を討ち両軍を破った。これで、軒轅は天下を取ったのだった。
2
傳:帝得百餘夔於[毀損],號曰“軒轅之師”。諸部不順者欲起,會於██,以共工、為酋。帝驅夔擊之,擒斬共工。帝堯有天下,文德昌盛,遂置夔於招搖山。舜繼而踐祚,鯀叛之,不敵。帝丹朱遂發夔師,斬鯀於羽郊。
補足: 帝・軒轅は[毀損]で夔を百匹余り手に入れ、それを「軒轅の軍勢」と名付けた。当時、軒轅の統治に服従しない各部族の者は██へ集い、共工3を盟主に擁して反乱を起こそうとした。しかし、軒轅は夔たちを使役して、共工を捕縛し処刑した。帝・堯ギョウ4の治世になると、国が安定していたため、夔は招揺山と呼ばれる場所に封印された。その後、舜シュンが国政を掌握するも、鯀コン5に裏切られ殺害される。帝・丹朱6は夔を解き放ち、その軍勢をもって鯀を羽郊7で討った。
史:異學壹零陸,竹書所載“夔”也。狀如牛,無角,一足,色蒼青,聲若雷震,方圓百丈聞者無不倒斃,面孔未見異狀。竹書曰,“帝子丹朱遂發夔師,斬鯀于羽郊”。後文不存。
而後千有餘年,或謂諸嬴秦、趙軍中。
巨君代漢。地皇二年秋,有賊挺師西犯,初克上黨、河內、河東三郡。至冬,乃大敗。時一太學生經行上黨,睹諸賊面容皆無異狀,頗為驚駭,乃與諸生共勘之,此異學會之源始。此太學生者,異學會太尉顓頊也。[咸寧二年書]
発見経緯: 異学壱零陸とは、すなわち竹簡に記述された「夔」のことである。その外見は角のない牛の如く、足は一本のみ。色は青白く、発する声は雷のように大きい。百丈以内にその声を聴いた者はみなその場で斃れるが、死者の表情はやすらかである。竹簡の記述は「帝子丹朱遂發夔師,斬鯀于羽郊」のところで途切れており、その後の記述はない。
その約千年後8、夔は秦や趙の軍隊に編入されていたとも言われている。
巨君9が漢に代わって天下を治めていた頃、地皇二年の秋、蜂起した賊軍は西へ侵攻し、上党・河内・河東の三郡を攻め落とした。しかし冬になると、賊軍はすぐ大敗した。当時、ある太学生が上党郡を通りかかったところ、死んだ賊軍の兵士の顔に苦しむ表情がないことを目の当たりにし、大変驚愕した。その後、彼は学友とともにそれについて考察を始めた。これが後の異学会である。この太学生はすなわち異学会の太尉顓頊センギョクである。[咸寧二年追記]10
帝正度遣異學會趣南荒,盟其君孟█,得夔██,于時為最,未幾,劉淵叛。永熙二十年,夔師克淵子聰於洛陽,竟不見史載。[上元元年書]
皇帝・正度11は異学会を南の荒れた辺境へ派遣し、当地を統治している孟█との同盟を結んだ結果、夔を██匹手に入れた。その時の数は最も多かった。その後、劉淵12が反乱を起こした。永熙エイキ二十年、夔の軍勢により、劉淵の息子である劉聡13は洛陽で敗れた。しかし、この戦で夔が使用されたと史書には記載されなかった。[上元元年追記]
咸通三年,方士據江、淮。異學會驅夔師破之,此後遂無全師見載。
天佑五年,溫挾夔攻晉王於潞州,晉王親以死士數百擊之,夜克溫于野,晉王亦歿於陣。[顯德二年書]
咸通三年
、方士
14は江淮
15を割拠した。異学会は夔の軍勢を使ってそれを破ったが、軍勢も不完全なものとなった。
天佑五年
、朱温
16は夔を使役し潞州で晋王
17を攻撃。晋王は自ら死士数百名を率いて迎え撃ち、夜の平野で朱温に勝つも、晋王も戦陣で死した。[顕徳二年追記]
宋開慶元年,太尉武曲██以所余遺賈似道,援██,未至,城破,太尉██、太尉██死節,太尉██以異學貳壹伍[判読不能],似道竊其功,事見異學貳壹伍。
洪武五年,複得見夔██於潁川侯部中。
景泰元年,或曰太尉武曲節庵嘗驅夔衛京師,未可考也。[景泰三年書]
宋の開慶元年、太尉武曲の██は残りの夔を賈似道18へ送り、██への支援とした。しかし、夔の到着よりも前に城は破られ、太尉██・太尉██は死に、太尉██は異学弐壱伍を以って[判読不能]が、賈似道に手柄を横取りされた。詳細は異学弐壱伍参照のこと。
洪武五年、夔が潁川侯19の軍隊に編入されることが見られる。
景泰元年、太尉武曲の節庵20が京師を守るために夔を使役したとされるが、実証はない。[景泰三年追記]
甲午戰端啟,異學會以餘夔赴朝鮮國,“致遠”艦載之,北洋水師與倭戰於大東溝,“致遠”與夔並沒。哀嚎至於威海衛。[清國光緒二十年書]
甲午の戦
21が始まり、異学会は残りの夔を致遠艦に積ませ朝鮮へ送った。しかし、北洋水師は大和と大東溝
22にて戦い、致遠艦は夔と共に沈んだ。その悲鳴は威海衛へ届いたという。[清国光緒二十年追記]
既存ノ資料ニ拠レハ異學壹零陸ハ不死身ニシテ子ヲ産マスト推シ量ラレル
然レト惜シムラクハ現物既ニ無ク確カムル術無キ事ナリ[民國七年追記]
贊:窮則變,變則通,通則久。久而不思變,其欲圖變也晚矣。昔蚩尤、神農以兵盛獸強為勢,黃帝驅夔而盡戮二師。則夔數為歷代所驅:新莽克赤眉,漢中克蜀軍,荊、揚敗狄胡,皆以為爪牙而無不克也。于忠肅之後,西洋火器漸盛,然異學會內鮮有開眼觀地球之人,遂使武備、異學,皆遜番邦。彼倭奴彈丸之地,自其王明治維新之後,國愈強,兵愈盛,然清廷、異學會皆不通變,仍驅夔以戰之。至於黃海,未克一兵一卒而沒,哀嚎之聲不絕于威海衛將士之耳,卻作水煮牛肉矣![太尉武曲██,甲午年書]
分析: 窮地に立つと、変化が求められる。変化を起こすと、道が開かれる。道を開けると、存続が永らえる。いつまでも変化を求めずに、変化が求められる時になったところでそれを求めても既に遅い。太古の蚩尤・神農は精悍な兵士と屈強な獣を従えるも、夔を駆る黄帝に両軍もろとも屠られた。彼の時より、夔は幾度も歴代の指導者に駆られてきた。新莽が赤眉に克つも然り23、漢中にて蜀軍に克つも然り24、荊州・揚州にて狄胡を破るもまた然り25。皆はその爪と牙に勝るものはないと断じてきた。于忠肅の時以降、西洋火器が盛んになるも、異学会内には眼を開いてこの地球を観るものは居なかった。その結果、我が国の武器も、装備も、異常の知識も諸外国に劣るものとなった。彼の日の本の国も、弾丸黒子の地に居ながらにして、明治維新以後は国がますます強大に、兵もますます盛んになった。されど清の政府や異学会は変化を求めもせず、ただ夔を駆りて戦うことしか知らない。黄海の戦に至っては、敵の一人も倒せずに沈没することとなった。その悲鳴は威海衛の将校と兵士の耳に届くも、ただ水煮の肉片となって散るのみ。嗚呼![太尉武曲██、1894年]
異学会文書: 異学106は「竹簡」に記載された「夔」という、外見上ウシに似た生物です。角はなく、蹄は一本のみで、体は青白い色を呈しています。。異学106は、致死性を有する高デシベルの声を発することができます。対象の声により死亡した人類は苦しむ表情を示しません。
276年追記: 「竹簡」の記述では、「帝子丹朱遂發夔師,斬鯀于羽郊」との文言があり、その後は記述されていません。
約千年後の戦国時代、秦や趙の軍隊に編入される夔が見られます。
21年、新の国内には反乱軍が蜂起、西へ侵攻し上党、河内と河东の3郡を攻略しました。しかし冬季になると、反乱軍は大破されました。当時、ある太学生が上党郡を通りかかったところ、異学106により殺害されたと思われる反乱軍兵士の死体を発見し、大いに驚愕しました。その後、彼は他の太学生とともにその件について調査を始めました。これが、中華異学会の起源だとされています。また、発見者の太学生はつまり当時の太尉顓頊です。
中華異学会の起源については、ここの記述は他の異学会文書の記述と食い違っています。また、記述には新の当時に存在していなかった太学生が現れており、異学会の編集者もこの点について偽作として疑う余地があるのではないかという疑問を呈しています。注目すべきなのは、この記述の執筆者は新の政権を肯定的に捉えていると考えられる点です。これは、中国伝統の価値観にも中華異学会の価値観にも相違しています。異学会担当の研究員からは、新の政権に関する部分の執筆者が他の部分とは別人であるという意見が出ています。
上元元年追記: 司馬衷は異学会を南の荒地へ派遣し、当地の指導者である孟█と同盟を結ぶ代わりに、██匹の夔を入手しました。これは、異学会が夔を最も多く保有した時期です。
その後、劉淵は謀反を目論みましたが、309年にその息子の劉聡は洛陽で夔の軍勢に破られました。しかし、史書に夔に関する記載は残りませんでした。
原文では「永熙二十年」を使用していますが、正しい表記は晋の懐帝が使用する「永嘉三年」です。異学会の他の文書においても類似した問題点が見られます。
955年追記:862年、方士によって江淮は占拠されました。異学会は夔を使役し、方士らを駆逐しました。異学会がすべての夔を保有したのは、これが最後です。908年、朱温は一部の夔を入手し、それで潞州の李克用に攻撃しました。李克用は自ら数百名の決死隊を率いて迎え撃ち、やがてその日の夜に朱温を破りましたが、彼自身もこの戦で命を落としました。
原文では「天佑五年」や「晋王」などの表現を使用しており、執筆者の立場は李克用の沙陀政権(後の後唐政権)側にあると考えられます。
1452年追記: 1259年、太尉武曲██は残りの夔を██支援のために賈似道へ送りました。しかし、夔の到着を待たずに、城は攻め落とされ、太尉██及び太尉██の2名は戦死、太尉██は異学215で[判読不能]ましたが、その功勲は賈似道に奪われました。詳細は、異学215を参照してください。
1327年、傅友徳の軍隊に夔が見られるようになりました。
1449年、太尉武曲の于謙が夔を京師の守衛に使用したとの説がありますが、実証されていません。
文書Y-215で攻防戦についての記述は削除されており、一部しか情報が残されていません。
明の京師保衛戦に、双方が異常物品を使用したことを立証できる証拠は現在のところ発見されていません。
1894年追記: 1984年、清と日本の間で黄海海戦が行われました。異学会はもともと保有していた夔を致遠艦に搭載し、朝鮮へ送ろうとしましたが、北洋水師が大東溝で日本と戦ったことで、致遠艦は夔と共に沈没しました。沈没時に夔の悲鳴は威海衛にも聞こえたと言われています。
1918年追記: 既存の資料によると、異学106は不死身ですが、繁殖はできないと考えられます。しかし残念ながらすべての実体はすでに失われてしまったため実証はできません。
訳注
1. 本記事の記述は一般に伝えられている神話・歴史と異なる点が多くありますが、おそらく意図したものだと考えられます。
2. 涿鹿の戦いは中国の伝説上の戦いです。『史記』の記述によれば、軒轅(後の黄帝)が先に阪泉の戦いで神農(炎帝)を破り、その部族を吸収した上で後の涿鹿の戦いで蚩尤を破ったとされています。
3. 共工は中国神話における悪神です。炎帝の一族の末裔で、水害の神とされています。『山海経』では洪水を起こし禹に退治され、『淮南子』では顓頊と帝位を巡って争い、『史記』では舜によって追放される記述があり、登場時期は定まっていません。
4. 堯は中国の伝説上の君主です。その在位中、天下は平和であったため、後に禅譲で帝位を継いだ舜とともに堯舜と並び称され、聖人として崇められています。
5. 鯀は中国神話における人物です。共工とともに四罪として数えられており、顓頊の息子で、禹の父親とされています。舜が鯀に殺される伝説はありません。
6. 丹朱は堯の息子で、正史では不肖であったため帝位を譲り受けることができず、舜が帝になったとされています。
7. 磔鯀泉という名前ではありませんが、羽山・殛鯀泉キョッコンセンは現在の山東省と江蘇省の省界に実在します。
8. 中国の戦国時代(紀元前5世紀 - 紀元前221年)です。
9. 新(8年 ‐ 23年)、または新莽は前漢の後に現れた王朝です。中国史上で簒奪で皇帝の座をもらい受けた最初の例とされており、清以前の歴史学者は王莽を否定的に捉えていることが多いです。
10. 新は前漢から太学制度を継承しましたが、太学の学生は「弟子員」と呼称されており「太学生」という呼び方はなかったと思われます。
11. 在位期間は259年 - 307年。在位中は10個もの元号を使用しています。
12. 291年 - 306年の間に発生した晋の皇族同氏の内乱「八王の乱」に乗じて、劉淵(在位期間304年 - 310年)は反乱を起こし、304年に五胡十六国時代の漢(前趙、304年 - 329年)を建国しました。
13. 劉聡は309年、晋の首都である洛陽の攻略を数回も試みましたが、いずれも失敗。なお、劉淵の死後、太子の劉和が帝位を継承しましたが、劉聡に殺され帝位を奪われました(在位期間310年 - 318年)。また、永嘉の乱により晋(西晋)が滅亡したのは316年のことです。
14.
中華異学会ハブの関連人物/組織を参照。正体不明の勢力で、異学会が収容と保存を行っている時にしばしば遭遇する要注意団体の一つ。
15. 長江と淮河が挟む地域。
16. 朱全忠、五代十国時代の後梁の初代皇帝(在位期間907年 - 912年)。
17. 李克用(856年 - 908年)、唐の末期の軍閥指導者。朱全忠とは徹底的に対立していました。一般的には病死とされています。なお、その息子の李存勗ソンキョクが五代十国時代の後唐を建国しました。
18. 1258年にモンゴル帝国の侵攻を防いだ南宋末期の軍人。
19. 傅友徳、元末から明初の軍人。朱元璋に仕え、明の建国に貢献しました。
20. 于謙、明の政治家。モンゴルのオイラト部のエセンが首都北京を侵攻した際(京師保衛戦)、軍を率いてそれを撃退した実績があります。諡号は忠粛。
21. 日清戦争。
22. 遼寧省丹東市東港市にある入り江。大東溝海戦は黄海海戦の別名です。
23. 赤眉軍。新の末期に発生した農民反乱軍。正史では王莽が反乱軍の討伐に失敗しています。
24. 漢中の戦(217年 - 219年)と思われます。正史では劉備が曹操を破り漢中の奪取に成功しています。
25. 「狄胡」は異民族の意。ここでは東晋が前秦を破った淝水ヒスイの戦い(383年)を指していると思われます。前秦は五胡十六国時代にチベット系とされる氐テイ族によって建国された国です。